Act13.「レーズンバターパン」


 目が覚めると“夕方手前の夜”だった。
 前夜祭の後、橙と別れてホテルに戻ったは、たっぷり昼寝をした所為で中々眠ることができなかった。しかし今こうして目が覚めたということは、自分はいつの間にか寝ていたのだろう。……昨晩0時、またあの“時間が戻る独特な感覚”があった。きっとここは、昨日と同じ一日の始まりだ。

 はベッドから起き上がり、窓を空けて夜気を吸い込んだ。この世界での、夜に寝て夜に起きる習慣に、体はすっかり馴染んでいる。朝日を浴びると生体リズムが整うなど体に良い作用があると聞くが、眩しい太陽より優しい月明りの方がほっとする気がした。

 は軽くストレッチをして、洗面所に行き顔を洗い、歯ブラシを手に取ろうとしたところで……違和感に手を止める。その歯ブラシは部屋に用意されていたアメニティで、昨晩も使用した筈だったが、今手に取ったものはまだ未開封の新品である。眠っている間に誰かが新しいものに変えたのだろうか? 否、きっと違う……昨日が無かった事としてリセットされているのだ。

 もしかして、と思いピーターから預かった巾着を開けてみると、やはり昨日の屋台で使った金も減っていなかった。物は新しいまま、金も減らないというのは――都合が良いかもしれない。

(昨日の屋台で食べ過ぎちゃった分も、リセットされてるといいんだけど)
 はどことなく重たい気のする腹を擦り、呑気なことを考えた。サイドテーブルに置いていた髪飾りがどこにもないのは、心から残念だが。

 しかし身支度をしながら、よくよく考えを巡らせていると……このリセットにはかなりの不都合もあるのではないだろうか? と気付いた。そう、例えばこのホテルの契約だ。ピーターが何時にこの部屋を取ったのかは分からないが、リセットされた瞬間に取り続けでもしないかぎり、未契約の時間がある筈なのだ。……今の時間はどうなっているのだろう?
 はいつ追い出されてもいいように、少ない全ての荷物を持ち、恐る恐る一階に下りる。だが受付に立っている男は特に不審がる様子もなく「おはようございます、行ってらっしゃいませ」と爽やかだがどこか事務的に言うだけだった。

「……おはようございます。あの、ちょっと確認したいんですけど」
「いかがいたしましたか?」
「えっと……わたし、ちゃんと宿泊手続き出来ていますか? ここに来た時は疲れていたので、あまり覚えていなくて」
 がルームキーを片手に尋ねると、男は手元の宿泊台帳らしき冊子に目を落とし、視線を上から下へ、左から右へ動かしていく。はドキドキしながらそれを見守った。

「お名前を確認しても?」
「はい……です」
 はそう答えた後で、直接手続きをしたピーターの名前を答えた方が良かったかもしれない、と思った。だが男は、穏やかだが機械的な笑みで頷く。

「ええ、ちゃんと様のお名前で、お部屋を取られていますね。チェックインも“昨日”お済みです」
「昨日?」
「はい……そうですね……ふむ」
 男は自分で言いながら、何か腑に落ちない点があるのか、その台帳を見つめて首を傾げていた。は“昨日”とはどういうことだろう、と思った。この街に居なかった”昨日”、チェックインなど出来る筈がない。ピーターが何かしたのだろうか?

 気にはなるが……とりあえず、助かった。これ以上男に不思議がられてボロが出てしまうのは避けたい。は「そうですか、そうですよね!有難うございます」と逃げるようにその場を後にした。


 夜明け前の街はまだ静かで、開店前の店が多く、道には屋台もない。八百屋とパン屋だけ開いており、朝食の食材を求める主婦が出入りしていた。はパン屋の香ばしい香りに惹かれたが、昨晩食べ過ぎた自分への戒めとして、一杯のコーヒーだけを買って広間のベンチに腰かける。
 熱々のコーヒーは苦いが、美味しい。香ばしい香りを嗅いでいると、クラシック音楽を聞いているような、自分が上質なものになったような気分になる。しかし本当に美味しいと感じて飲んでいるのかは分からない。だって苦いのだ。世界で初めてコーヒーを作った人は、何をもってこれを完成としたのだろう。

 でも、まあ、やっぱり美味しい。

 立ち上る香りを追って顔を上げると、真っ黒な空の合間には、橙色の雲が混ざり始めていた。



 *



 夕方になると、街は少しずつ賑やかになり始める。がベンチから立ち上がろうとすると同時に、その横に誰かがどっしり座った。深く帽子をかぶった恰幅のいい男だ。男はよれよれの上着のポケットから煙草のケースとライターを取り出すと、手慣れた様子で火をつける。それから煙草を美味そうにくわえ、小脇に挟んでいた新聞紙をバサッと広げた。その一連の流れは決まった演技みたいに、熟練したものに見える。

 は怪しまれない程度に、男の手にある新聞をちらっと見た。新聞の紙面には大きな文字で「16月8日時計塔設立祭」と見出しが書かれている。端の方には「発行日16月7日」と印字もあった。
 ……そういえば、昨日もこの場所でこの男を見かけた気がする。時間帯は今よりずっと遅かった筈だが、こんなに早くから居座っていたのだろうか? などと考えていると、思っている以上におもむろな視線になってしまっていたのか、男が訝し気な顔で「なんだね」と新聞から顔を上げた。

 しかしその表情は思ったより柔らかい。少なくとも昨日、人々から感じた視線とは違う。

「すみません、お祭りの記事がちょっと気になって。……“いよいよ”ですね?」
「ああ、遂に”明日”だ。君は観光かね? 存分に楽しんでいきなさい」

 やはり、今日も祭りの前日の、16月7日で間違いないようだ。
 は軽くお辞儀してその場を離れる。とりあえずもう少しだけ街の様子を見て回り、何か昨日と違う点がないか確認してみよう。それから、今日こそ遅くならない内に時計塔に行ってみようと思った。街の誰かに時計塔の話を聞いてみるのもいいかもしれない。

 人の増えてきた街を歩いていて、昨日よりずっと快適なのは、やはりあの異様な視線が減っているからだろう。昨日時点で、あの視線は“純正の7日”に存在しない余所者に対する驚きや警戒であり、初見時一度きりのものなのだろうと予想していたが……リセットされた今日もまだそれが引き継がれているのは、何故なのだろう? 今日の自分は、彼らにとって初見の筈ではないのか。もしかすると……人々の潜在意識下には、昨日の記憶が残っているのかもしれない。

 街を巡って、いつの間にか最初の広間まで戻ってきてしまった。ベンチにはまだ新聞男が座り込んでいて、彼は一体何時間そこに居るつもりなのだろうと思った。まるでRPGの街に配置されたノンプレイヤーキャラクターである。少し言葉を交わしただけに、もう一度顔を合わせるのが気まずく思えて、はそのベンチの主に見つからないようこっそり迂回した。

 そろそろ軽く食事でも摂ろうかと、コーヒーを買ったパン屋で、今度はパンを買って店を出た時……

 ガシャン! と、近くで何かが割れる音がして、はビクリとする。音に続いて「すみません!」と謝罪する女性の声が聞こえてきた。

 がそちらの方を見ると、道横にある飲食店のテラスで、店員が客に頭を下げていた。彼女の足元には割れた食器と食事がぶちまけられている。客は横暴な態度で悪態をついていた。――これも、昨日と全く同じ光景だ。
 パン屋の女主人が様子を見に出てきて、気の毒そうな溜息を吐く。

「ありゃあ……マーマレードちゃん、大変そうだねぇ。忙しい日だっていうのに、給仕のバイトさんが熱でお休みらしいのよ」
 私も自分の店がなけりゃ、手伝ってやるんだけどねぇ。と、女はその気もなさそうな声で、聞いてもいない言い訳をした。どうやらマーマレードというのは、あそこで客に責められている店員の名前らしい。甘酸っぱくほろ苦そうな名前だな……とは思いながら、その人を眺めた。

 適当に束ねられた長い白銀の髪はほつれてボサボサで、一見老女に見えたが、客に謝る声は青く高い。振り子時計みたいに行ったり来たりお辞儀を繰り返す体は、12時の方向を指す時はすらりと伸びていて、やはり若い女性のようだ。しかしその垂れた髪から覗く疲れ切った横顔が、全身が醸し出す哀愁が、彼女を老けた印象にしている。もパン屋の主人同様、他人事の顔で「大変そうですね」と同情した。

 は折角の美味しそうなパン(胡桃が練りこまれたカリカリのフランスパンに、硬めのレーズンクリームが挟まれた何とも美味しそうなパン)を、そんな騒ぎを聞きながら食べるのはどうかと思い、紙袋に入れたままそこを離れる。どこか心休まる場所を求めて歩いていると、近くで「あっ」と幼い声が上がった。

 何の拍子か、少年の手から風船の紐が離れていってしまったのだ。黄色い風船は電線をかいくぐって空にのぼっていき、小さく、小さく、赤い空に溶けていく。
 少年は泣きながらそれを見ていたが、やがて母親に手を引かれそこを離れていった。

 ――そういえば、こんなこともあったな。
 同じことを一つ一つなぞっていくのは、得体のしれない気持ち悪さと、ある種の気持ち良さがあった。パズルのピースがはまっていく感覚である。

 はこの後、何が起きたかを思い出そうとした。が、思い出すよりも先にその出来事は起きてしまう。
 バサバサという音がしてそちらに目を向けると、本の山を抱えた青年が、何冊かを地面に落としてしまっていた。両手が塞がっていて拾うことができないのか、困り顔を浮かべている。は見て見ぬふりもどうかと思い、それを拾うことにした。

「大丈夫ですか? 運ぶの手伝いましょうか?」
 は昨日の自分がこの状況で何と言ったのかを覚えていなかったが、その言葉を口にするのは初めてではない気がした。青年は本の向こう側から覗くようにを見て、恥ずかしそうな笑顔を浮かべる。

「ありがとう、でも大丈夫。すぐそこだから。僕の鞄に入れておいてもらえるかな?」
 そう言われて、は彼の大きなショルダーバッグに数冊の本を入れながら、この後の展開を思い返した。確か彼はこの大量の本を、これから図書館に返しに行くところだった筈だ。そして話の流れで、街を案内しようかと声を掛けてくれた。

 昨日は咄嗟に断ってしまったが、住民に話を聞けば何か分かる事があるかもしれない。何より一人ぼっちのこの状況が少し不安になってきており、誰かと話をしたいと思った。

 は青年の二度目の誘いを受け、図書館で用事を終えた彼と、先程歩き回った街にまた繰り出す。亜麻色の髪の、柔和な雰囲気を纏ったその青年は、名をユリリオというらしい。歳は二十歳。花屋を営んでいるという彼からは、微かに花の香りがした。

 ユリリオはを連れて、色々な場所を案内してくれた。本好きなだけあって論理立った説明はとても分かりやすい。は課外授業を受けている気分になった。

ちゃん、あれがこの街で一番大きな工場棟だよ」
 ユリリオが、遥か上まで聳え立つ鋼色の棟を指差す。は首が痛くなるようなそれを見上げて「はあ」と感嘆の声を上げた。

「この街は、どうしてこんなに工場が多いんですか?」
「周囲に炭鉱や湖があって、工業が発展しやすい環境だったこともあるけど……」
 ユリリオは一度区切って、少し声を抑えて続けた。

「セブンス領は、トランプ王国の端にあるよね? 中でもキルクルスの街は国境に近くて……森の向こうには教国がある。教国が高い技術力を持っているのは知ってるよね?」
 は頷く。教国がアリスの味方で、ロボット兵というSFチックな武力を有しているということは知っていた。だが敵対している国の技術力が、この街の発展とどう関係するのだろうか?

「教国には厳しい戒律があって、耐えられなくなった人達がこのセブンス領に逃げてくるんだよ。教国には優れた技術者が多かったから、この街は不法移民達を暗黙に受け入れてきた。そうして移住してきた人達が技術を伝えて、キルクルスの街は工場街として発展してきたんだ」

 ユリリオの説明を聞きながら、は鈍色の街並みを眺めた。剥き出しになった金属の骨組み、ダクトの血管。一つの大きな生命体のように見えるそれは、小さく細かい部品が集まって出来ているのだろう。この街も、そのように作られてきたのだろう。

「ここの工場長は、なんと侯爵様が務めていらっしゃるんだ。領主としてのお仕事もあるのに、本当に凄いよね!」
「え? 侯爵様が?」
 侯爵とは橙の父で、あの怪しいアドルフのことだろう。彼が工場長というのは妙にしっくり来た。彼が侯爵だと知った時の方が、よっぽど驚いたものである。

「そうそう。それに、侯爵様の奥様も天才技術者なんだ! あまり人前に姿をお見せにならないけど、綺麗な人だって噂だよ。ご夫婦で本当にかっこいいよね」
 侯爵の奥方ということは、橙の母親だろう。健在ならその人は今どこにいるのか。

「お二人はいつもどこに居るの?」と尋ねるが、ユリリオは「侯爵邸じゃないかな」と答えた為、は彼からその所在を知ることはできないと悟った。侯爵邸で発生しているバグについて、彼は知らないのだ。

「ちなみに、侯爵様には“工爵”っていう愛称があるんだよ」
「へえ」
 ユリリオは相当彼を慕っているらしい。街を案内する中でも工場について特に熱く語った彼は、工業に興味があるのだろう。花屋という職業からはあまり想像できないが、もしその職業が自由意志ではなく、世界に決められたロールネームに従っているだけのものだとしたら……切ないな、とは思った。

「機械って本当にいいよね。ロマンだ。僕は最近、機械式の植物が作れないか研究しているんだよ!」
 ……同情なんて筋違いで烏滸がましかったみたいだ。彼は彼らしく、楽しく生きているらしい。

 それにしても、機械式の植物とはどんなものだろう? その話は、ランチを兼ねて聞くことにした。とユリリオは手頃なカフェで食事をしながら、暫くお喋りを楽しむ。

ちゃんは観光で来てるんだよね? いつ帰るの?」
「うーん。まだ決めてないですが、お祭りの後にはすぐ帰ろうと思ってます」
「そう……あ、明日のお祭りももし良かったら、一緒に行かない?」
 前のめりで誘ってくるユリリオから、は分かりやすい好意を感じ取った。彼は善人のようだし、楽しい時間を過ごせたのは事実だが、少し迂闊だったかもしれない。今更そう分類することに違和感はあるが、始まりは所謂ナンパだったのだから。

「明日は先約があって」
 それは嘘ではなかった。例えこの時間軸では白紙になっていようとも、確かに橙と約束をしたのだから。ユリリオは悲しそうな、残念そうな顔で、笑った。

 また会いたいと言ってくれたユリリオに曖昧な笑みを返して、は彼と別れる。気付けばまた、夕方が終わりに近づいていた。今日も明るい内には時計塔に辿り着けそうにない……また明日にしよう。

 だが、足は自然とその方向に向かい始める。時計塔とは別に、この時間になったら行かなければならない場所があるのだ。街を出て林に入ろうとしたところで、は思いがけない人物に遭遇した。昨日ぶりのピーターだ。彼はと入れ違うように、林から街の方に来たようだった。反射的に嫌な顔をされるだろうと身構えるだが、彼は疲れた顔で、気力無さげにをじとっと見て、呟くように尋ねる。

「どこ行くの」
「えっと……ちょっと橙に会いに」
 が答えると、ピーターはようやく嫌な顔をした。

「君に何かあっても、もう僕は知らないよ」
「分かってるよ」
 は不貞腐れ、彼から顔を背けたが……可愛げのない自分に少し反省もした。色々と助けてもらっている立場なのだ。

「安心してよ、これからの展開も二度目だから」
 がそう言うと、ピーターは呆れたように「ああそう」とだけ言って、その場を去ろうとした。は「あっ」と咄嗟に声を上げて、そのどこかよれた背中を呼び止める。

「なに」
「これ、あげる!」
 はすっかり食べ損ねてしまったパンの入った紙袋を、勢いよく彼に押し付けた。フランスパンだし水気の少ないクリームだから、悪くはなっていない筈だ。これから橙と祭りに行くなら食べる機会は無いだろうし、何より、元気のない彼には一刻も早く糖分摂取が必要な気がした。

「疲れている時には、甘いものが必要だよ!」
 ピーターがうっかり受け取ったの見届け、は言い逃げし、林に駆けて行った。

「なんなんだ……あの子は」
 ピーターは呆気に取られ、走る白ウサギの後ろ姿を見ていた。 inserted by FC2 system