Act10.「惰性的な記憶喪失」



 はごく浅いまどろみから起き上がる。結局昨晩は、渦巻く思考から逃れることができず、ろくに眠ることができなかった。休息の足りていない体は怠く、頭は重い。しかし何度も失敗した入眠に、挑戦を続ける時間はない。

 床に無造作に置かれた時計が、一定のリズムで時を刻んでいる。窓の外は相変わらず深い夜のままだが、もう午前7時を過ぎていた。この世界では午前9時頃に夜が明けて夕方に変わり、午後5時頃にまた夜になる。アドルフは夜明け前に出て行けと言っていたから、そろそろこの家を出るべきだろう。

 は誰にも聞かれていないことを良いことに「よっこいしょ」と立ち上がる。寝不足で眩暈がする中、梯子を下りるのは中々スリリングだった。梯子を下りた先の二階には誰の姿もなく、家全体がまだ寝静まっている。はそのまま忍び足で一階に下りた。
 こっそり洗面所とお手洗いを借りて、身支度を整えたらアドルフの部屋に行って挨拶をしよう。もしノックしても彼が出てこなければ、そのまま家を出ようと思った。

 洗面所で顔を洗い、悪いとは思いつつタオルで拭い、ブラシを借りて髪を梳かす。本当に悪いとは思いつつ化粧品も借りてしまった。今日の橙は分からないが、昨晩の橙は好きに使っていいと言ってくれたし、これっきりだから許してほしい。
 化粧水と乳液を充分肌に馴染ませ、この世界特有の“見難い色鏡”を覗いて、最低限整ったことを確認する。髪だけでなく顔にも寝癖が付いているようなどこか締まらない印象だが、まあ……許容ラインだ。は妥協して洗面所を出た。そしてギョッとする。洗面所の前で、橙に出くわしてしまったのだ。

 橙は夜明けと共に起床すると聞いていたが、あれは確定事項ではなかったのだろうか。ループ中の異分子である自分が立てた音で起きてしまったのかもしれない。

 橙は今起きたばかりのような、ぼんやりした顔で立っている。赤く艶やかな髪には若干、枕の形が残っていた。茶色の目はまだ虚ろに夢を見ていて、意志が読み取れない。は彼女に掛ける言葉が見つからなかった。アドルフの話を信じるなら、彼女は今記憶を失っている状態なのだろう。昨日会った人間のことも忘れているに違いない。そして何より今の彼女には、下手に刺激すると壊れてしまいそうな儚さがあった。

 橙の目が少しずつ覚醒の色を帯びる。その顔にじわじわと浮かび上がってきた感情は、戸惑いだった。何も言わず、ただどうしていいか分からなそうにを見ている。それは幼く弱弱しく、昨日の気が強くハキハキしていた彼女からは想像もできなかった。まずは彼女の出方を見るつもりだっただが、このままでは埒が明かないと、思いきって口を開く。

「おはよう」
 橙は驚いた様子で「ほぁ」と息を漏らした。

「誰? ……アタシは……誰?」
 困惑に満ちた顔。彼女の様子はとても嘘を吐いているようには見えない。目の当たりにしてようやくは、彼女は本当に記憶喪失なのだ……と理解した。でなければ相当の演技派だ。

 どうしよう、今の彼女に何を言えばいいのだろう? と悩む暇もなく、慌てた様子でやってきたアドルフが橙の腕を引いた。そして彼女の頭を両手で包み、自分以外見えないように周囲を遮断する。

「お前は俺の娘で、名は橙だ。俺と二人でこの家に暮らしている。この娘は夜中に道に迷っていたので、昨晩泊めた」
 それは昨晩あれだけ寡黙だった男のものとは思えない程、淀みのない長い台詞だった。きっともう何度も同じ事を繰り返し伝えてきて、慣れきっているのだろう。彼にとっては“おはよう”と同じものなのかもしれない。

 はアドルフの説明を“刷り込み”みたいだと思った。これで橙がすんなり信じてしまうなら、危険ではないだろうか。アドルフが悪意を持って彼女を騙していたらどうするのだろう。親鳥だと思ったら……蛇だった、なんてことになるかもしれない。

 橙はアドルフを黙って見つめている。その目がパチパチと瞬きする。一生懸命頭の中を整理しているのだろう。彼女は「そう」と一言言うと、彼の手を振り払ってに向き直る。その目は、険しい。

「アンタ……道に迷ったって? それ本当?」
「えっ、うん、本当だけど」
「泊ったって、どこの部屋に泊ったのよ?」
「や、屋根裏に」
 先程までの大人しかった様子から一変して、突然火が付いたように詰め寄ってくる橙にはたじろぐ。「ふうん?」と橙は何かを疑う目で、明らかな敵意と不快感をに向けていた。は何故か……本当に何故かは分からないが、そんな彼女を浮気相手を糾弾する本妻みたいだなと思ってしまった。謎に三角関係の修羅場のようなギスギスした空間に、四人目が割り込む。

「夜明け前に出れば問題ないと言っていた、あれは聞き間違いでしたか?」
 ピーターがいつものように腕組みをして、ふてぶてしい顔でそこに居た。は、自分を迎えに来てくれたのだろうか? とホッとする。橙は新たな登場人物に眉を顰めた。

「この人は?」
「彼はその娘の……同行者だ。二人でこの辺りに旅行に来たらしい」
 アドルフの説明に、とピーターはそれぞれ複雑な表情を浮かべる。自分たちが共に旅行する間柄だというのは、嘘にしても違和感がありすぎた。しかし橙は何故か安心したような顔で「そうなのね! アタシ、てっきり」と言った。(何が、てっきりなのだろう?)

「アンタ、悪かったわね。名前は?」
「えっと、わたしは、……」
ね。アタシは橙よ!」
「……いい名前だね。わたし、色の名前って好き……」
 元気いっぱいに名乗る彼女は、今の今まで自分の名前すら忘れていた記憶喪失の少女には見えない。橙の急激な変わり様には動揺し、思わず昨日と同じ感想を述べてしまった。

「アタシ、朝食の用意をしてくるわ! 今朝は四人分必要よね!」
 橙はそう言うと、軽やかにキッチンの方へと駆けていった。は呆然とその後ろ姿を見送る。彼女の姿が完全に見えなくなったのを確認してから、アドルフに確認した。

「あの子、本当に記憶喪失なんですか?」
 先程鉢合わせてしまった時の橙は、確かに何も持っていない空っぽの状態に見えた。しかしこの数分の間で、その器は一気に満たされる。記憶喪失が嘘だとは思えないが、本当だとも思えなくなってきていた。アドルフは小さく頷いて肯定するが――どうしても納得できない。だって橙は何の迷いも無く、この家の中を知り尽くしたように歩いていったのだから。

 だが納得できていないのはだけではなかった。アドルフはゴーグルに隠されて見えない目で、を睨む。

「橙はこれまでの繰り返しで一度も、この時間に起きたことはない。あの子は、ただでさえ不安定な状態なんだ。どうかこれ以上……関わらんでくれ」
 それはを責め、同時に懇願するようでもある悲痛な声だった。の存在が変化に繋がり、それが橙にとって悪影響だと言いたいのだろう。ここで起きているループ現象の解決を望むなら、変化は願ってもない事の筈だ。それを恐れ否定するアドルフはきっと、ループを終えようとしていない。寧ろ変わらないことを望んでいるのかもしれない。
 彼はきっと橙に、自身が侯爵であるということも教えないのだろう。必要最低限の情報だけを与えて、人の街から離れ、この小さな箱庭に少女を囲っている。彼らの事情は分からないが、はアドルフに良い感情を抱けそうにはなかった。

 本当にこちらを見ているのかも分からないアドルフを気味悪く思って目を逸らすと、ピーターと目が合う。相変わらず冷たい目をしているが、大分慣れてきたのか、彼らしいと思うだけだった。

「今までどこに行ってたの?」
「いちいち君に言う必要がある?」
「まあ、無いね」
 はやれやれと肩を竦める。自分たちのやり取りに、アドルフの下半分の顔が少し驚いているように見えて、は渋い顔で尋ねた。

「あの、どうかしましたか?」
「いや……君達は仲が良くないのか? そういう仲なのかと思っていたが」

 何を言っているんだ、この人は!
 アドルフの言葉に、とピーターが互いを見やるタイミングはぴったり同時だった。二人とも動揺したくない気持ちは同じらしく、涼しい顔を保ってはいるが……何か言いた気なのは誰が見ても明らかだった。

「決っしてそんなんじゃないです。どうしてそう思われたんですか?」
 が訊くと、アドルフは小さく「服が……」と言いかけたが、喋る事に疲れたのか続きを言うことなく、のそのそとキッチンに向かっていってしまった。橙が準備を始めている以上、達が朝食を共にするのは受け入れるらしい。追い出すのはその後ということなのだろう。

(服?)
 はアドルフの言いかけた言葉を脳内で復唱する。服が何だと言うのだろう? と自分の着ているものを見てハッとした。

 そうだ、そうだった、そうなのだ。自分の着ている服は元白ウサギだったピーターが着ているものと似たデザインで、彼もまだそれを着ている。つまりペアルックのような状態なのだ。ジャックの館に居た時は、自分達の関係値の低さは周知の事実で、全く気にならなかった……と言えば嘘になるが、すぐどうでも良くなってしまった。しかし詳しい事情を知らない人にはさぞおかしな誤解の種になるだろう。
 アドルフはが新しい白ウサギであることを知らされていたようだが、適当な説明しかされていないに違いない。は愛着を抱き始めていたその服を着替えたくなった。本当のことを言えば、別に彼とお揃いである事が嫌なのではなく、そのことに彼が嫌悪を感じるのが嫌だった。案の定、ピーターは非難じみた目をに向けている。

「気になってたんだけど……いや、そこまで気になってないけど、なんでそんな格好してるわけ?」
「そう言われても……常盤さんが用意してくれたから、分からない」
 多分、ピーターの培ってきた白ウサギのイメージをそのまま踏襲したのだろう。常盤は『君らしい白ウサギになればいい』と言っていたが、ピーターに会ってしまった以上、の中の白ウサギのイメージは彼になってしまっているし、世界に根付いているイメージというものもあるのでは無いだろうか。
 正直納得はできないが、自分がこうだと認識している以上、それ以上の真実はないように思える。それに、不思議の国でいくら深く考えても無駄な気がする。

 ピーターはそっけなく「あ、そう」と言った。は気まずくなり「橙を手伝おうかな」と誰に言うわけでもない言い訳をして、キッチンに逃げることにした。

 キッチンに足を踏み入れると、そこは別世界だ。教育番組のような朝ドラマのような、どこか懐かしい温もりと爽やかさに包まれている。鍋の中はコトコト優しく煮立ち、包丁はトントンと規則正しいリズムを刻んでいた。橙は勝手知ったる自分の城みたいに、慣れた動きで食事の準備をしている。アドルフは偉そうに席に着いたまま、彼女を眺めているだけで何もしない。そんな彼に、橙は「お皿、出す!」と指示した。

「わたし、やるよ。どこ?」
 のその申し出に橙は一瞬だけ躊躇いを見せるも、断るのも悪いと思ったのか「お客様なのに、悪いわね」と言って食器棚を指差した。デザインに統一性のない食器が詰め込まれたそこは、この家を凝縮したように雑多である。その時々の思い付きで買って、それが集まった結果なのだろう。家具や食器、全てが統一されていた常盤の家とは真逆だ。

「お皿と、スープカップでいいかな? あとコップ?」
「ええ、ありがと」
 はできるだけ似たデザインと大きさの食器を四つずつ選びながら、食器棚のガラスに映る二人を見る。橙もアドルフも、とても空間に馴染んでいた。二人からはまさしく“家族”という感じがする。家庭的な雰囲気と言えば、温かく落ち着けるものを指すのだろうが、それはあくまで自分が家族の一員の時に限ると思った。他所の家庭には独特の閉鎖感がある。流れる空気も敷かれたルールも排他的なもので、気が休まらない。

 常盤と黄櫨は基本的に一人行動が多く、それぞれ好きに生活していた。適度な距離感で、暗黙に不可侵領域を保っていた。家族というよりは同居人という感じのする二人だったからこそ、自分も気が楽だったのだろうと、は気付かされる。居心地の良い彼らの元に帰りたくなってしまった。

 橙が調理を終える。が食器を並べ終える。ピーターもやってきて、意外にも全員分のコップにお茶を注ぐ。アドルフは何もしない。そして、奇妙な四人での食事が始まった。
 会話の殆どはと橙の間にしか無かったが、橙がそれを全く気にしていないのが救いだった。アドルフの無口さに慣れているからだろうか?

 こんがりトーストと、トマトと卵の炒め物は美味しく、豆のスープは胡椒が効きすぎていた。



 *



 食事の時、橙が「街のことについて少しは教えてあげなさいよ」とアドルフに言ってくれたおかげで、は彼からちょっとした話を聞くことができた。

 話によるとこの街では明日、何か大きな祭りが催されるらしい。今は祭りを目当てに遠方からも多くの観光客が訪れているとのことだ。そのような状況だから、達が旅行に来たという方便も違和感なく受け入れられたのだろう。

 食事が済んでもまだ話したりない様子の橙だったが、アドルフが「この二人には用事があるようだ。急ぐのだろう?」とに強い口調で同意を求めたため、は「はい」と話を合わせるしかなかった。橙はつまらなそうにしつつ「それなら仕方ないわね」と引き下がる。

「明日のお祭りで、また会えるかしら」
 家を出る時、名残惜しそうに言った橙に、は自分でも驚くほど上手な笑顔で「うん、きっと会えるよ」と返した。そう、きっとまた会うことになるだろう。それが明日ではないにしても。

 この繰り返し物語の先にはきっと、この少女が居るに違いないという、不思議な確信があった。 inserted by FC2 system