Act10.「変化」



朝食前、空っぽの胃がストレスでぐるぐる押し潰される。

ユリウスは捻り潰さんばかりにの腕を掴んで、灰色の前髪の奥でじとりと彼女を睨んだ。は大型犬に追い詰められたような気持ちになって、顔を引き攣らせる。目の前に居る相手が、会話で交渉できる種族だとはとても思えない。先程までここに居た橙は、爆弾だけを落としてそのまま朝食の準備に行ってしまった。

―――こうなることは想像できた筈だった。しかしは、少しだけ油断していた。素性の分からない相手とはいえ、数日同じ屋根の下で生活を共にしたことで、ある程度の関係を築けたつもりでいたのかもしれない。自分に対して、そこまで危険な人物ではないと思い込んでいたのかもしれない。

「あいつに何をした」
あいつ、とは橙のことだろう。は、橙が父親であるユリウスを差し置いて自分のことだけを覚えていたことが不満なのだろうかと思ったが、どうやら事態はその程度では無いらしい。
彼は、橙が“覚えている”ということで、何かを恐れているようだった。もしくは、それ自体を。

「あいつに、何をした」
二度目の問い。ユリウスは意図的なのか無意識なのか、腕に更に力を入れる。は自分の骨がぎしぎしと悲鳴を上げるのを聞いて、悲鳴を飲み込み冷や汗を流した。
何もしていない、とありのままの真実を彼への答えにすることは、火に油を注ぐだけだと思えた。だからといって、何をした訳でもない。この場合、泣いて己の非力さを主張するのが得策かもしれないが、緊迫した空気に目はよく乾いていた。

「“まだ”何もしてないんだけど?」
うあー!!と、は自身の口から零れ落ちた最悪の言葉に叫びたくなった。自身は冷静であるという自信で己を奮い立たせていたものの、やはりそれを欠いている。己よりも強い力を持ち、己に対して敵意を持っている相手を挑発するなど愚の骨頂だった。

頭に血を上らせたユリウスは、の胸倉を掴みにかかろうとした―――が、その手は第三者の介入によって止められる。

「あなた達は立ち話が好きみたいだけど、家の中なんだから座って話しなよ」
ユリウスの腕を掴んで止めたピーターは、少し厳しい口調で言った。

「僕たちは彼女に何もしていない。何かしているのは、あなたの……娘の方だろ」
ユリウスはピーターの言葉にさっと顔を青褪めさせると、彼の手を振り払ってずかずかと階段を下りていった。
緊張から解かれたは壁に寄りかかり、大きなため息を吐く。

「はあ、助かった。っていうかあなた、あの人にそんな態度でいいの?偉い人なんでしょ、公爵様」
「僕は貴族と城との間に波風を立たせたくなかっただけだ。彼はろくに城に姿を現さずに自身の領内に閉じこもってばかりいるから、元から関係は良好じゃない。だから、下手に扱いたくなかったんだよ。なるべく……いや、君に言っても仕方ないけど」
「えっと、色々と大変なんだね。はは」
ピーターはを睨んだが、睨まれた方はそれどころではなかった。ユリウスの迫力ある凄みに、まだ心臓がどきどきしている。

「ああ、あとさっきのだけど……橙が何かしてるって話。あれって何?」
「ああ……。君だって気付いてるでしょ」
「う、ん。まあ、なんとなくは」
花篝の夜のこともそうだが、橙の存在そのものが不審な点の寄せ集めのようなものなのだ。だから、核でなくともこの繰り返し物語の中心人物であることは確定していいだろう。しかし何をどうしているのかは、分からない。ピーターは知っているのだろうか。は問いかけるつもりで彼の目を見る。すると、口を開く前に首を横に振られてしまった。

「でも、どういうわけか彼女の10日に君が現れた。何かが変わるかもしれない」
「―――変化?願っても無いことだけどね」
「君はまだ何もしていないと言っていたけど、これから何かするつもりなら精々あの公爵には気をつけた方が良い」
は、まるで自分を心配するかのような言葉に、疑わしげにピーターを見た。誰だお前。

「なに?言いたいことでもあるの」
「いや、これも変化かなと思って」
ピーターはの言葉に、意味が分からないというように目を細めた。




結局ユリウスはその後部屋に篭ったまま、朝食の用意が整っても姿を現さなかった。
彼の様子もその原因も知らない橙との三人の食事は気まずかったが、は威圧感を発する存在が消えたことで、いつもよりは気が楽だった。

、暗い顔しちゃってどうしたの?拾い喰いでもしてお腹壊したんじゃないでしょうね?アタシの料理でお腹壊したとか言ったら承知しないわよ」
「………うん」
「………!聞いてる!?」
「ああ!うん、聞いてるよ」
原因でありながら一人蚊帳の外の橙は、随分と暢気なことを言う。
わたしのことを知っている今朝の橙は、今までよりも確実に気さくに接してくれていた。……しかし、わたしはこんな橙は知らないのだから、フェアじゃない。

「わたし、ちょっと街に行ってくるね」
「あ、!アタシも行くわ!」
橙が元気良く椅子から立ち上がったのを見て、は戸惑いを隠せなかった。彼女はこれから、機械弄りで時間を潰すのではないのか。
人間の行動が予測できないのは当然のことの筈だったが、は自分が苛々していることに気が付いた。願っても無かった変化が、こんなに違和感のあるものだとは思ってもみなかった。

「ご、ごめん!人と会う約束があるんだ」
「あ、そうなの?もうこの街で友達が出来たのね。もう、いっそのことここに住んじゃいなさいよ」
断られた橙は、さして気にした様子も無く笑っていた。彼女のあっさりした反応には安心する。街の様子を窺いに行くというのに橙と一緒では、彼女に振り回されて目的を忘れてしまいそうだと思い、断ったのだ。ふらふらと歩き回り、立ち止まってどこかに腰掛けては往来の流れを見つめているなど、彼女が一緒ではとても許されるとは思えない。
「行ってきます」

なにより、は誰とでもすぐに仲良くなれる程器用な性格ではなかった。
友人関係に関してのモットーを広く浅く、で通してきたには、出会って数日のまだよく知らない少女と出かけることなど、疲労を生むものでしかないように思えたのだ。
は、行ってらっしゃいと言う橙の目から、心中に気付かれないように視線を逸らした。



アウグスの街は、今日も人で賑わっている。橙の変化でもしやと思ったものの、街には目に見える変化は無いようだ。しかしはメイシャの店の前で足を止めて、「あっ」と小さく驚きの声を上げた。
見覚えの無い少女が、店の中を忙しく駆け回っている。その少女はとあまり歳の変わらない、街娘のようだった。長いおさげを揺らせ、額に汗を滲ませながら料理を運んでいる。お世辞にも手際が良いとは言えないが、一生懸命仕事をしている姿には好感が持てた。は店の様子が気になって、入り口の近くまで寄るとそっと中を覗き込む。そこでまた声を上げそうになり、急いで口を押さえた。
規則正しく並ぶテーブルの上に立てかけられた番号札。あれは、昨日が発案したものだ。

「おや、店員さん、見ない顔だねえ。それに、なんだか最近はそれ程待たされなくなった気がするよ。………ん?いやいや、私は何を言っているんだろうね。この店に来るのは初めてだって言うのに」
「ふふ、初のご来店有難う御座います。でも驚きですわ。仰る通りですから。私、今日からここでお手伝いさせて頂くことになったんですよ」
客の一人と少女が話しているのを聞きながら、はゆっくりとその場を離れた。たった一日、本来居るべきではない人間がその場に入っていっただけで、こんなにもすぐに変化は訪れるのだ。

「なんだか前にも同じようなことを思ったような気がするねえ。この店は他にも新人さんを雇ったのかい?………いや、私はおかしなことばかりを言っているね、忘れておくれ。そうそう、この店に来るのは初めてなのだから」

雑踏に紛れて聞こえてきた客の言葉に、はひっそりと笑った。しかし思い出したようにハッとしてポケットを漁る。すると指先を薄い紙が掠めた。端を引っ張り上げてみると、何枚かの紙幣が顔を覗かせる。全てがやり直しになるならば消えているかもしれないと思っていたが、メイシャから受け取った給金は確かにまだそこにあった。
一瞬、ここはもう既に“明日”なのではないかとも思ったが、辺りを見回してみても祭が行われている様子は無かった。は溜息を溢して地面に視線を落とす。と、母親に手を引かれる幼い少年の小さな足が目に入った。が何気なくその少年の顔を見るのと、少年の手から風船の紐が離れるのとは同時だった。見る見る間に、黄色い風船は夕空に溶けて見えなくなっていく。少年は泣き、母親は泣いている少年を宥めながら、二人は去っていく。

「ああ、そうだった」
はそう言って、素早く後ろを振り返るとしゃがみ、勢い良く手を前へと突き出す。ポスン、とその掌に一冊の本が納まる。得意げな顔をしたいところをグッと堪えて、は目の前で驚き佇む青年にその本を差し出した。

「どうぞ。落としましたよ」
「あ、ああ、ありがとう。驚いたよ。まさか地面に落ちる前に拾ってもらえるなんて。君は反射神経が良いんだね」
「いいえ、そんなことはないですよ。偶然です」
どうせ拾うのなら、落ちる前にと思っただけだ。別に落ちたところで消えてなくなってしまう訳でもないのだ、と思い、一度拾わなかったことがあった。しかしそうすると青年が自分で拾うよりも先に、今が立っている場所を大急ぎで走っていく少年がその本を踏みつけてしまうのだ。二人から少し離れたところを駆けていった少年の後姿を見て、は息を吐く。
彼を見上げれば、柔らかそうな亜麻色の髪が夕方に透けていた。青年はたくさん中身の詰まった鞄にその本をねじ込むと、ずり落ちそうになっていた眼鏡を指で押し上げて、前髪を撫で付けた。

「あの、君は観光に来たのかな。良かったら、僕が街を案内しようか?」
「えっと……」
はどうしよう、と言葉を濁らす。初めて彼に誘われたときには疲れで気にもしていなかったが、どう考えてもこれはナンパだ。しかし見る限り彼は真面目そうで、気も弱そうだ。

(まあ、どれも見かけだけの判断で、確定していることといえば趣味が悪いということくらいだけど……)
頬を朱色に染めての返事を待っている青年に、はぎこちなく笑みかけた。

「じゃあ、図書館に行ってみたいです」
「良かった!断られるんじゃないかと思ったんだ―――って、余計なことは言わなくて良いんだよ僕!……図書館なら僕の第二の家みたいなもんだよ。今日も今までずっと居たんだ。お安いご用さ!」
任せてよ!と胸を張る青年に、はおかしな人だと吹き出してしまった。

「え!僕、何か変なこと言ったかな!?……でも、君が笑ってくれるなら良いか。あ、僕の名前はユリリオ。家は花屋をやってるんだ。今日は父さんも母さんも明日の発条祭の準備で大忙しで休業中。だから店番もしなくて良くて、一日中ゆっくり図書館で本を読むことが出来たんだ!」
「お花屋さんなんですか、素敵ですね。ええと、わたしはっていいます。お祭りを見ようと思って、この間からこの街に滞在中です。よろしく」
「よろしく、ちゃん!」
ユリリオの柔和な笑みに、は緊張を解く。

「さ、行こうか。図書館は夜には閉まっちゃうから」
「はい」
二人は連れ立って歩き始めた。橙色のレンガが積み重なる、大図書館へと。
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