Act1.「六時」



『あら、あなた……きょうはないていないのね』
『うん……。でも、なんできょうはきみがないてるの』
『だいじな、だいじなとけいをなくしてしまって、かなしいの』
『とけい?ああ、いつもくびからぶらさげてたやつだね。きみがすきなアニメのおんなのこの』
『そう!そうなのよ!たくさんシールをあつめて“おうぼ”したのに!せっかく!』
『また、あつめればいいよ』
『そういうことじゃないのよ!それになくしただなんて……おかあさんにいえやしないわ!』
『おこられるから?』
『ちがうわよ。かなしませたくないのよ』
『そうなんだ。きみのおかあさんはやさしいおかあさんなんだね。きみがやさしいからかな』
『……それっておかしいわ。だって、おかあさんってわたしよりもずっとまえにうまれてて、わたしがうまれたときからずっとやさしいんだもの。もしわたしがやさしいんだったら、おかあさんがやさしいから、だとおもうけど』

『………じゃあ、ぼくのせいじゃないよ』

『え?……いま、なんていったの?』
『どうでもいいことだよ』
『どうでもいいんだったら、いっしょにとけいをさがしてちょうだい』
『うん、どうでもいいことだからね。いこうか』


カチ、コチ、カチ、コチ、


『なにか、ききなれないおとがするわ。ねえ、きこえない?』


わたし、このおと、しっているようなきがするんだけど。



*



もう数回繰り返してきたことだが、“夢”を支配される感覚には一向に慣れなかった。それは、見知らぬ誰かが心の中に勝手に入ってきて好き勝手にかき回していくようなものなのだ。原因の分からない切なさと悲しさに包まれて……最後には、突然そこから切り離される。そして、まだぼやけた温もりを纏いながらも、もう睫の向こう側には輪郭の確かな世界が待っている。
その夢からの目覚めの瞬間は、いつも色々な感情が混ざり合って収拾が付かない。思考が上手く働かず、焦りや不安が溢れかえる。自分が夢を見ている間に“事”は間に合わず、終わってしまったのではないか。実は元より全てが、夢だったのではないか……。
だから目覚めた時に、一人だと少し不安になるのだというようなことを、一つ前のお茶会でポツリと洩らしたことは覚えている。けれど―――、

「おはよう」
「……おはよう、黄櫨くん」

(一緒に居てくれとは、頼んでいない!)

この世界に来てからこういった機会は増えたものの、やはり寝起きの顔を人に見せることには抵抗があった。……まあ、黄櫨くんが子供だったのがせめてもの救いだけど、と、は全く子供らしくない少年を見やる。

は目を擦りながら上体を起こして、世界を認識した。そこは談話室だった。どうやら自分はソファに体を預けて眠っていたらしい。自分の体に掛けられた大きめのブランケットを丁寧に畳んで「ありがとう」と黄櫨に返そうとしたが、彼は「違うよ」と言う。

「それ、常盤が掛けたんだ。だから僕はどういたしましては言えないよ」
「………そっか」
はぼんやり返事をしながら、眠りに付く前のことを思い出していた。



ジャックの屋敷から帰って来て、もう一週間が経っていた。その間は“アリスを捕まえる”というこの世界での自分の役目を果たそうと、彼女の手掛かりを探して色々な場所を歩き回った。そしてその成果は上々であり、当初の危惧を余所に事は順調である。
手掛かりといってもこの世界の場合は特殊で、お尋ね者のアリスがあちこちに残した“記憶の痕跡”を集めて回るのだ。またその痕跡は目で見て分かるものではないというのだから厄介で、は地図と睨めっこしながら、なるべくアリスという女の子が行きそうな場所を想像して、一つ一つ地道に当たっていた。
鏡みたいな池に、森の奥のお菓子で出来た空家。月明かりの下でだけ咲くという、ひまわり畑……。そしてそれらは大抵、想定通りの“当たり”であった。

しかし今回の当たりは、町外れの何も無い草原だった。目的はそこではなくその近くの空中庭園だったのだけれど、生憎にもそこは外れた。彼女の足跡が残っていたのは、ただの帰り道の草原だったのだ。
カサカサと草が揺れる音の中で、の意識はいつものように途切れた。それでも最初に比べれば幾分か慣れてきたもので、意識を手放す前に同伴者にそれを伝えるだけの余裕ができていた。「おやすみなさい」と。彼女の同伴者は、殆どの場合が常盤だった。だからがいつも最後に見るのは、崩れる自分の体を受け止める彼の珈琲色のベストだった。

今回も眠りに落ちた自分を彼にここまで運ばせたのかと思うと、は申し訳無さで重力が十倍くらいになるような気がした。本当は目が覚めるまでどこかその辺に放置していてくれて構わないと言っても良かったのだが、彼女の眠りは浅い時には一時間、深い時には八時間近く続くこともある。その間草むらで眠りこけている自分を彼に気に掛けてもらうのも、十分に申し訳無い。

何はともあれ、これで手にしたアリスの手がかりは五つ目だ。は、彼女との間に横たわっていた厚い隔たりが少しだけ半透明に透けてきたような気がしていた。まだまだ向こう側は見えないけれど、予兆は感じられる。そんなところまでは、来ていた。
しかしこれからが難しくなる。と、は思った。今回の草原での発見から、アリスの記憶を刻んでいるのは、必ずしも特徴的で特別な場所に限らないのだということが分かってしまったからだ。その事実は、捜索場所の選定を一気に難しくした。

、そろそろお茶にしよう。お腹空いたよ」
「え?まさかわたしが起きるの、待っててくれたの?」
照れることもなく無表情で「そうだよ」と頷く黄櫨に、は嬉しくなって「ごめんね、ありがとう」と微笑した。

「うん、どういたしまして。じゃあ僕は準備しておくから、君は常盤を呼んできてよ。君を連れて帰ってきてからは、ずっと部屋に篭って仕事ばかりしてるんだ」
「でも、邪魔じゃないかなあ」
「いいんだよ。邪魔してあげないといつまでだってやってるんだから。ついでにブランケットも返してきたら良いよ」
「わかった。行ってくるね」
は眠たそうな目で立ち上がり、欠伸を噛み殺しながらドアノブを回した。さっきまで寝ていたのだけれど、この意図しない特殊な眠りは疲れを取るどころか、どっと疲れさせる眠りなのだ。まるでプールで大はしゃぎした後みたいな疲れに圧し掛かられ、のそのそと歩くの背中に黄櫨が一言、「ちゃんと邪魔してくるんだよ」と言った。

コンコン。は彼の部屋のドアを指先で軽く叩く。爪を木に立てていたから、ノックとさほど変わらない大きさの音が響いた。しかし中からは何の反応も無い。はもう一度、今度は倍の数のそれを繰り返す。
コンコンコンコン。………。それでもやはり反応は無い。もしかすると部屋に居ないのではないか?と、そっと扉に耳を寄せてみる。すると、中からはカリカリとペンを走らせる音が僅かに聞こえた。長期休暇の最終日に手付かずだった宿題をやっている時のような、イライラしたペンの音だ。カリカリカリカリカリガリガリカリカリ……。
は少しだけ躊躇して、それから思い切ったように中に声を掛ける。しかし思い切った、というのにはあまりにも控えた声だった。大きさはノックの音の、二分の一も無い。

「あのー……」

カリカリ、カリ。しかし今度はピタリとペンの音が止まった。は特に続ける言葉も考えておらず、「すみません」と言った。その時、物音と気配が近付いて、扉が開いた。インクの匂いがふわりと漂う。

「どうした?」
部屋から出てきた常盤を見て、は少しだけ驚いた。彼の格好がいつもと違ったからだ。まず眼鏡を掛けていたし、髪だっていつもは跳ねさせているけれど今は手付かずと言った様子で真っ直ぐ下されている。(やっぱり普段のアレはセットしてたんだな……)
いつもはきちんとしている服もやや着崩されているのを見て、は一体自分がどんな顔をしていたのかは知らないが、常盤がその視線に気付いて慌ててボタンを留めるので、少しだけ恥ずかしくなって、笑って誤魔化した。

「あの、これ、有難う御座いました」
はそう言って、ブランケットを彼に返す。彼は「お疲れ様」と言ってそれを受け取った。はその予期しない労いの言葉に、少しだけ疲れが取れたような気がした。

「あと、黄櫨くんがお茶にするから来てって、言ってますよ」
がそう言うと常盤は微妙な心持ちで、彼女の背後に実際には居ない黄櫨の姿を見た。
彼女を自分を呼ぶための使いに寄越すなんて、黄櫨もやってくれるな、と思ったのだ。彼女が次に外に出るまで、この部屋から出るつもりは無かったのに。

「ああ、分かった。もう少しで一区切りつくから、そうしたら行く」
「じゃあ中で待っていてもいいですか?」
間髪入れないの返答に常盤が「え」と驚く。

「わたし、“お邪魔”するように言われて来たんですよ?」
そう言っては笑った。当初こそギクシャクしていた彼との関係だが、ここ一週間で大分慣れ、どこまでなら踏み込んでも良いのかが分かってきていた。常盤は諦めたように、言う。

「……分かった。適当な場所に掛けてくれ。急いで終わらせるから」
は「はい!」と返事をして、初めて入る彼の部屋にわくわくしながら、そこに踏み入った。しかし、部屋に入ったは立ち尽くす。何しろ部屋中に本やら紙やらが積み上げられていたので、どこに座ればいいのか分からなかったのだ。結局彼の作業机の横に、発掘してもらった椅子を置いて、その作業を見守ることにする。常盤は席に着くまで何度も、「汚いからあまり見回すな」と言っていた。 はそれを否定できず、苦笑するしかなかった。他の部屋が綺麗に整頓されている分、これは予想していなかったのだ。


カリカリカリ。先程扉越しに聞いていたものよりは柔らかな音で、羽ペンが羊皮紙の上を走る。ジャックの屋敷のどこかで万年筆を見かけたけれど、彼が羽ペンを使っているのは好みの問題か。そんなくだらない質問で彼の作業を妨げるのは、流石に気が引けた。
しかし、本当に一体何を書いているのだろうか。見る限りではローマ字の筆記体のようだが……そこに連なるのは彼女の知らない言葉だ。は軽い気持ちで、それを読み解いてみようと文面に目を凝らす。が、さっぱり分からない。そんなものだから直ぐに飽きて、今度は筆記者を観察し始める。

常盤は先程から変わらず、真剣な眼差しを紙面に這わせている。時折視線を数行戻しては、また続きを綴る。はその横顔をまじまじと見つめ、改めて彼が整った顔立ちをしていることに気付かされた。見慣れない眼鏡がまた特別感を醸し出していて、は少し得した気分になる。そのままじっと見続けていると、ひたすら文字を追っていたその視線が突然こちらに向けられたので、驚いたは前のめりになっていた上体を起こす。顔を上げた彼はちょっと息苦しそうな、困った顔をしている。

(もしかするとわたしがこの部屋の酸素を吸いすぎているのかもしれない!……いやいやまさか)

彼はそのまま一息吐いて、今書いたばかりの一文に横線を引っ張ってから、ペンをペン立てに立てた。

「……見られていると上手くいかないものだな」
「あ!ごめんなさい」
「いや、君はここに来た目的を充分に果たしているということなんだから、堂々と喜んでいれば良い」
「あ、そうですね。へへ」
気の抜けた顔で笑うに常盤は少しだけ表情を緩めて、インクの乾いた羊皮紙から丸め、机の上を片付けを始めた。そんな彼には思いついたように訊ねる。

「そういえば、常盤さんのお仕事って何なんですか?たくさん読んだり書いたりされてますけど……作家さんとか、ですか?」
本当はその疑問は今思いついたのではなく、彼と出会った日から抱いていたものだったが、最初はそんなことを話しかける余裕もタイミングも無かった。あまりに凄まじい環境の変化にそれどころではなかったのだ。今だってとても余裕のある状況ではないが、幾分この世界にも慣れ、平凡な毎日における常日頃の自分並の好奇心は持つことができるようになっていた。そうなれば身近なことから知っていきたいと思うのは普通で、寧ろお世話になっている人の職業すら知らないというのも変な話だった。

常盤は、何故か答えを迷っているようだった。

はつい二日程前、常盤より少しだけ話しやすいもう一人の同居人にこれと同じ質問を投げかけてみたのだが、その時には「難しい」としか返ってこなかったことについて考える。その回答から、ケーキ屋さん、とか魚屋さん、という分かりやすいものでないということは、予想していた。しかし、

「私の仕事は……滞りなく世界が進むように、管理することだ」
(……確かに、難しいな)
彼が練った答えは、予想以上に意味が分からず、抽象的だった。仕事の目的も、内容も、そしてそれが先程まで行っていたこととどう結びつくのかも、分からない。

「管理、ですか?」
「分かり辛くて悪いが、そういう仕事なんだ」
「そうなんですね……。いつもここでお仕事をされているようですが、同じお仕事をされている方とかはいらっしゃるんですか?」
「いや、居ない。この国が始まった頃から、この仕事をしているのは私だけだ」
「この国が始まった時って……この国はそんなに最近に出来たんですか?」
しかし、それには返事が無い。ただ彼ははぐらかすように笑みを浮かべるだけだ。は、それは彼を困らせてまで知りたいことだろうか?と自分に問いかけ、その結果、彼と同じように少しだけ笑って、無かったことにした。彼はきっと、知られたくないのだ。わたしには。

「……大変そう、ですね」
が、幾重にも掛けられた机の引き出しの鍵を見て、言う。入った時から気になっていたものの、この部屋には、極端なまでに鍵が多かった。棚も机も、どこもかしこも施錠されているのは、それだけ重要な何かがそこにあるということだろう。そしてこの国は、多分あまり平和ではない。常盤やピーターが銃を所持していることからも、それが窺える。

「大丈夫だ」
常盤がの危惧に答える。
何が大丈夫なのだろう。それほど危ない仕事ではないということだろうか?なら、良かっ―――、

「君を危ない目に合わせたりはしない」

やはり、“危ない目”は存在するらしい。
インク壷の蓋を閉め終えた常盤を見て、は椅子から腰を上げる。その時ちょっと勢いが付きすぎたのか、背後にあった紙の塔が崩れそうになったけれど、なんとかギリギリのところで持ちこたえてくれた。ピサの斜塔よりももっと傾いているそれに、はひやひやするが、足元に散らばっているものをみるとそれほど気にしなくても良いことなのかもしれない。折りたたみ式の椅子を畳んで壁に立て掛けながら、は本当に何気なく、言葉を溢した。

「帽子でも売っていれば、安全だと思うんですけどね」

の言葉に、常盤が動きを止める。それから、ゆっくりに視線を合わせた。

「私は、君に自分の役について話したか……?」
常盤が言葉を発するまでには、少しの間があった。驚いている、というよりももっと静かな感情が彼の中にはあったような気がしたが、はそこまで深くは考えなかった。ただ、このことについても彼があまり知って欲しくはなかったのだろうということだけは、彼が自分から話さないことで既に分かっていて、それでも、“何気なく”という無意識下でまでそれを思いやることが出来るほど、は出来た人間ではない。

「いいえ。ただ、なんとなくそれっぽいかな、と。常盤さんは、この不思議の国の“帽子屋”さんでしょう?」
そう言われた常盤は苦い表情を浮かべる。それも当然だ。“気違いのイカレ帽子屋”なんて言われて喜ぶ人間など居るだろうか。あまり良い呼称ではない。

「……あまり言いたくなかったんだ。それに、自分では似合わない役だと思っていた」
「まあ、そうですね。わたしもそう思います。常盤さんってちゃんとしたまともな人に見えますから。でも、この世界では眠りネズミは眠らないし、白ウサギはアリスを追いかけなくちゃいけないんだし。だとしたら、しっくりくると思いますよ」
そう、狂っているのは彼ではなくてこの世界の方だ。常盤はの言葉に少し安堵したようだった。

「私がまともなのは当然だ。水銀なんて使ってないからな」
帽子屋がとち狂っていると言われる由来は、帽子を作る過程に使う水銀が中毒を起こし、帽子職人の神経に障害を及ぼすから、というものだ。がそれを知っていたのは、偶然だった。不思議の国の物語は子供から大人まで広く愛されており、大人になれば設定の裏を調べてみることもある。は幼い頃より童話やファンタジー小説などの夢物語が好きで、成長した今ではそれらの考察本などにも手を出しており、その話もそれらから知った事の一つだった。だが、そこで得た知識を共通認識として会話で出すことなど滅多にない。何故なら、一般的にあまり通じない体。
しかしまるで、にその知識があることを当然のように話す常盤に、は自分の知りえない“彼の中の自分”に、やれやれと肩を竦めて、笑う。


「でもやっぱり、ちょっと変わってますよね」


パタパタパタパタ。可愛らしい足音が早足で近付いてきて、部屋の扉を開けた。黄櫨は両手にパッチワークキルトの鍋つかみをはめたまま、「二人とも、遅いよ」と、不機嫌な声で言った。
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