Act1.「現の夢、夢の現」



『あら、あなた……きょうはないていないのね』
『うん。でも、なんできょうはきみがないてるの』
『だいじな、だいじなとけいをなくしてしまって、かなしいの』
『とけい?ああ、いつもくびからぶらさげてたやつだね。きみがすきなアニメの』
『そうなの。せっかく、たくさんシールをあつめてオウボしたのに』
『また、あつめればいいよ』
『そういうことじゃないのよ!それになくしただなんて……おかあさんにいえないわ』
『おこられるから?』
『かなしむから』
『きみのおかあさんはやさしいおかあさんなんだね。きみがやさしいからかな』
『それっておかしいわ。だって、おかあさんって、わたしよりもずっとまえにうまれてて、わたしがうまれたときからずっとやさしいんだもの。もしわたしがやさしいんだったら、おかあさんがやさしいから、だとおもうけど』

『……じゃあ、ぼくのせいじゃないよ』

『え?いま、なんていったの?』
『どうでもいいことだよ』
『どうでもいいんだったら、いっしょにとけいをさがしてちょうだい』
『うん、どうでもいいことだからね。いこうか』


 チキ チク チキ チク


『なにか、おとがするわ。ねえ、きこえない?』


 わたし、このおと、しっているようなきがするんだけど。



 *



 また、おかしな夢を見た。青バラに襲われた後に見た夢と同じく、幼い少年と少女が出てくる客観的な夢。二人の舌足らずなお喋りは頭に入ってきたが、声や顔に焦点を当てようとすると途端に分からなくなる。見ていたのに、見えていなかった。ただの夢にそこまで詳細な設定は無いのかもしれない。ただ分かるのはその夢が、覚めてしまうのが勿体ないと思うくらい、心地よい夢だったということ。春陽のように優しく、ほんのり切ない。愛おしい余韻。

 しかし覚醒は無情で、一度現実に気付いてしまえば夢は急速に遠ざかる。自分の体に触れる柔らかい布地の感触、動きに合わせて沈むクッションの弾力が、夢の残り香を奪い去っていった。

 ……はゆっくり目を開ける。最初に捉えた物体は、重厚感のある濃茶色の家具だ。繊細な彫刻が施された家具たちは格調高い雰囲気を纏っている。耳を撫でるのは、パチパチという暖炉の音。

(ここは……常盤さんの家の、談話室だよね)
 初めてここに来た時は、貸された猫気分で落ち着かなかったが、今はすっかり寛げるようになっていた。どうやら自分は、ソファの上で横になって眠っていたらしい。どうしてここで寝ていたのかは思い出せないが、は見慣れた部屋にひとまず安心する。

 最近、目覚めの瞬間が少し怖かった。
 自分が寝ている間に、アリスがこの世界……“不思議の国”を消滅させてしまうかもしれない、という不安があるからだ。この世界に残された時間にはまだいくらか猶予があるとピーターは言っていたが、それは不明瞭すぎて安心材料にならない。彼の言葉を聞いてから数日経っている今、その期限は明日でも明後日でもあり得るのではないか。そしてその時までにアリスを捕らえられず、不思議の国が消滅した場合、自分は元の世界に戻るがこの世界の記憶を失ってしまう、という話だった。

 目覚めると元の安全な世界で、何もかも忘れてしまっている。そうなればもう恐れることも悲しむこともないのだろうが、今この世界にいる自分には、とても怖いことだった。その恐怖はこの世界への愛着に比例して、日に日に増していく。

「おはよう」
 突然近くで発せられた抑揚のない少年の声に、は小さく驚く。体を起こすと、の寝ていたソファの端っこの方に、小さくなって本を読んでいる黄櫨が居た。が彼を見ると、彼の黄色い瞳もまたを見つめ返す。は寝起きの顔をまじまじ見られたくは無かったが、不思議と不快感は無かった。この少年の持つ静かで澄んだ空気は、見る者の心を洗うのだ。

「おはよう、黄櫨くん」
 はソファの上から脚を下ろして、座り直す。頭のところには枕替わりのクッションが、体にはブランケットが掛けられていた。はその大きなブランケットを丁寧に畳んで「ありがとう」と黄櫨に返そうとしたが、彼は「違うよ」と言う。

「それは、常盤が掛けたんだ。だから僕はどういたしましては言えないよ」
「……そっか」
 は、眠りに付く前のことを思い返した。



 *



 ジャックの館から戻ってきて、もう五日が経っていた。自分をここへ送り届けたピーターが黄櫨に事情を説明したらしく、一日目は心配そうな黄櫨に見守られながら、大人しく過ごしているしかなかった。館に残って青バラ異変の後処理をしていた常盤は、二日目に帰ってきた。青バラが巣食っていた地下の調査とバグ(不具合)の修復は無事に完了したらしい。

 の世界ではバグというと、ゲームなどコンピュータープログラム上の不具合のことであったが、この世界では現実に出現するものを指す言葉だった。不思議の国はの世界と比べるとかなり不安定なようで、予期しない事象やアリスの異変など大きな力が加えられると、様々なバグが生じてしまうとのことである。

 バグの例としては視覚世界の解像度の変化や、普段使っている文字の文字化け、異空間に繋がる穴が開いてしまったりと、やはりゲームにありがちなものだったが、どれも現実に起きると生活に支障をきたす恐ろしいものだった。

 常盤はそれらのバグを引き起こしている原因を探し出し、バックグラウンドに介入して修復することを仕事にしているらしい。修理屋と呼ばれているそうだ。バックグラウンドへのアクセス権限、編集権限を持つのは、アリス以外だとごく一部の者のみだという話だったが、最初にそれをに話して聞かせた彼自身がその一人だった。
 介入できるといってもバックグラウンドには階層があり、アリスが世界の消去“虚無化”を実行しているのは上層部、彼が対応できるのは表世界に近い下層部ということで、アリスを直接止めるような術は持たないとのことだ。

 アリスが進める虚無化と、それに伴い現われる異変の影響でバグは増えており、彼は多忙を極めているようだった。

 ジャックの館から戻ってきた後、すぐに次の異変場所に向かおうとする彼に、は自分も同行させてもらえないかと頼んだ。アリスの手掛かりを見つけるためには異変の現地に出向かなければならない。それを考えると異変の情報が集まりやすい常盤の元に居るのは、都合が良かった。……かは分からない。彼はを危険な場所に連れて行きたくないようで、複雑な顔をしていたが、が熱心に頼み込むと渋々了承してくれた。

 三日目に向かったのは、馬車で半日ほどの場所にある小さな町だった。そこで起きている異変はが身構えていた恐ろしいものではなく、毎日夜が更けると、どこからともなく綿毛のような白い光が現れ宙を舞うという、幻想的で美しい異常現象だった。それは今までが見てきたどの景色よりも感動的で、写真に撮っておけなかったことが悔やまれてならなかった。

 その異変自体は何も害はなく、見た目の美しさから町の人々も祭り気分で楽しんでいたが、異変を放置すると重大なバグに繋がるらしく、いつまでも野放しにしておくわけにはいかないらしい。それで解決の依頼を出したという訳だ。

 常盤の調査の結果、光の玉は妖精の一種のようで、本来は人気のない暗い森に生息している筈が、異変で人の居住地に迷い込んでしまったのだろうということだった。町の明るさに目が眩んで彷徨っていたらしく、町の全ての灯りを消すと、光たちはやがて大人しくどこかへ消えていった。本来居るべき場所へ戻ったのだろう。は名残惜しそうにその異変の結末を見届けた。

 異変自体は素晴らしい体験で良い思い出になったが、問題はその後見つかったバグである。建物の裏など見逃してしまいそうな場所に複数発見された黒い穴は、異空間に繋がる穴で、万が一人が落ちてしまうと戻って来られる保証はないらしい。
 その穴を一つ一つ修復していく常盤の後ろで、大人しく彼の仕事を見守っていただったが、途中で小さな乳白色の石を拾った。少し透き通ったその石は、角度を変えてもいないのに不思議な光を揺らめかせており、触れると熱く冷たい。にはすぐにそれが、自分が探していたアリスの残留思念の欠片だと分かった。そしてそれに触れてから……ひどい眩暈とだるさに襲われ、帰ってくる途中の馬車で、気絶するように眠ってしまったのだ……。自分で歩いてここまで来た記憶がないということは、きっと常盤に迷惑をかけたのだろうと、は重い気持ちになった。

 の思考がようやく過去から今に追いつくと、それを見計らったように黄櫨が言う。

、そろそろお茶にしよう。お腹空いたよ」
「わたしが起きるの、待っててくれたの?」
 ニコリともせず至って真面目な無表情で「そうだよ」と頷く黄櫨に、は「ありがとう」と微笑んだ。

「うん。じゃあ僕は準備しておくから、君は常盤を呼んできてよ。君を連れて帰ってきてから、ずっと部屋に篭って仕事ばかりしてるんだ」
「でも、邪魔にならないかなあ」
「邪魔してきて欲しいんだよ。じゃないといつまでだって、やってるんだから」
「そっか。了解、行ってくるね」

 は立ち上がり伸びをすると、ブランケットを大事に抱えて部屋を出た。……まだ、体に疲れが残っている。馬車での移動時間を考えると、半日以上寝ていたのではないだろうか。それなのにまるでプールで大はしゃぎした後みたいな疲労感があった。アリスの残留思念の影響かもしれない。そういえばジャックの館で目覚めた時にも、体がふら付く感じがあった。あれは青バラに精力を奪われた所為だけではなかったのだろうか。

 のそのそと歩くの背中に、黄櫨が「いってらっしゃい」と言った。 inserted by FC2 system