どうしてこんなことになってしまったのだろうか。
どうしてアタシが、こんな目に遭わなくちゃいけないのだろうか。

息がきれる。酸素がもっとたくさん欲しい。指先が空気に嫌われたみたいにビリビリ痺れている。走りっぱなしの足がガクガク震えて、滑稽な操り人形みたいだ。胸の辺りがぐるぐるする。吐き気がする。汗が頬を伝っているのに、背中は寒気でゾクゾクしていた。

それは、途中まではいつも通りの、ある夜の話だった。



Act0.「錆び付いた歯車」



空が月を失ったある晩、×××の幸せの箱庭は見たことも聞いたこともない外敵からの襲撃を受けた。
それは、全く予期せぬ平穏な日常の終焉だった。

「もうダメよ!逃げられっこないわ。もう無理なのよ!」
ネグリジェの裾を焦がした少女は大男に手を引かれ、二人の使用人と共に焼けた廊下を走り続けていた。突然の夜襲に今やもう、屋敷中に赤黒い火の手が回ってしまっている。正体不明の侵入者が姿を現してからというものさほど時間は経っていなかったが、ここは既に自分達の住居ではないのだと、×××は涙した。彼等が現れてからここが占拠されるまでの事は、本当になす術もなく、一方的なものだった。決してその屋敷の住人が、たまたま続いていた平和に頭を蕩けさせて警戒を怠っていたのではない。ただ、相手が圧倒的に強かったのだ。

「なんでこうなるのよ!なんで!アタシが何をしたっていうの!?」
×××が目の前を走る男に、まるで責め立てるようにそう叫んだ。男は、彼女の何倍もの大きな声でそれを怒鳴りつける。

「黙って走れないのか、この馬鹿娘!」
「なによ、なによ!黙っていたら助かるとでも言うのかしら!?この陰険根暗引きこもり野郎!」
「ご主人様、奥様、ここです!ここの食堂の裏口から外に出ることが出来ます!」
言い合う二人の後ろから、厳格な顔の年取った執事が息を切らせて言った。その言葉を聞いて即座に先頭に飛び出したのは、女の使用人であった。
年の頃は20にも満たない若い使用人であったが、冷静な判断でより安全な道を選び、三人を目的の場所へと誘導する。しかし、彼女は気丈な表情を保ってはいたが、傷だらけのその体は時々ふら付いていた。×××はそんな彼女が気になって仕方が無く、だからつい自身の足元まで気が回らず、食堂の真ん中で、転がった花瓶に躓いてしまったのだ。しっかり繋がっていた男と少女の手が、汗で滑り、離れる。

「×××!」
彼女の夫はすぐさま駆け寄ろうと思ったものの、勢いの付いた足はすぐには止まらず、既に数メートルの距離が二人の間には広がっていた。彼は×××の元に足を踏み出そうとしたのだが、ふと上で揺れている黒い影に気付き、顔を上げる。使用人が悲鳴を上げた。

膝を擦りながら立ち上がる×××の真上、天井からぶら下がった豪奢なシャンデリアの上では、黒い影がケタケタ笑いながらそれを揺らしている。影は明らかな悪意を持って、シャンデリアの上で、跳ねた。ギ、ギ、と嫌な音が鳴る。まずい、と思ったときにはもう、シャンデリアを吊っていた太いロープはぶちりと切れていた。

それからは一瞬の間のこと。

×××に手を伸ばした男の足を黒い影が捕らえ、×××は自分の身に何が起こっているのかを解せず上を見上げ、召使がしゃがれた声で何かを言って、使用人の背を押し出した。

押された使用人の体は踏みとどまることも出来ず×××の方へ向かい、咄嗟に飛ばした手は×××の体を突き飛ばす。突き飛ばされた×××の体は、少し離れた床に投げ出された。



ガシャアアアアアアアアアアン!



床の固さに×××が顔を顰めた瞬間、けたたましい音と衝撃が彼女の世界を覆い尽くした。
瞬間的に死を覚悟した×××だったが、いつまでたっても予想していた痛みが訪れないことを不思議に思い、起き上がる。

―――居なかった。

どんなに目を見開いても、ぶつかってきた彼女は、どこにも居なかった。居るはずの場所には天井から落ちてきたシャンデリアが、破片を散らして潰れている。
×××が視線を奥にやると、そこには青い顔をした執事が震えながら立っていた。その後ろで黒い影に白銀の斧を突き立てた巨体の男も、焦ったような顔でこちらを見る。

「………?」

首を傾げる×××の方へ、巨大な青銅のシャンデリアの間から、何かがドロリと流れ出した。あ、ああ、ああ、ああ!!嘘!嘘!嘘でしょ!!

「アタシ、が……」

いけなかったの。

全部、全部全部全部全部全部アタシがいけなかったからいけなかったからいけなかったからだからだからだからアタシがいけなかったからアタシの所為で彼女が、彼女が―――アタシの彼女が―――!!


(最期の瞬間、彼女は一体どんな顔をしてアタシを見ていた?)



「い、イヤ、イヤよこんなの、」

頭がぐらぐらした。世界の輪郭がぐにゃりと歪んで、どんどん遠ざかっていく。どこか暗いところへ、自分の体が落ちていくようだった。よく知った声がどこかでアタシの名前を呼んだ気がした。でももしかするとそれは、アタシの名前じゃないのかもしれない。だから、もう、なんにも、知らない。知らない知らない、知らない。

知らない。


少女は気を失い、その場に倒れこんだ。悪夢さえ此処よりはましだろうと、無意識下に逃げ込むように。



カチリ。 どこかで何かが、止まる音がした。
inserted by FC2 system