歯車は回る。軋みながら回る。
 ガタ ゴト ガタ ゴト
 荒々しく強引に、歪な時を刻む。

 針は回る。震えながら回る。
 チキ チク チキ チク
 追い立てるように性急に、無情な時を刻む。

 砂時計の砂漠、水時計の海。
 日時計は影に呑まれ、花時計は枯れ果てた。
 壊れた不協和音で、仕掛け人形は踊り続ける。

「こんな時間、アタシは認めない」

 進むことも戻ることもできないなら、止めてしまうしかないんだ。



Act0.「錆び付いた歯車」



 どうして、こんなことになってしまったのだろう。
 どうして、アタシがこんな目に遭わなくちゃいけないのだろう。

 息がきれる。酸素が足りない。走り続けていたせいで横腹が痛み、脚はガクガク震えて、思うように動かない体が邪魔くさかった。胸の辺りがぐるぐるする。吐き気がする。汗が頬を伝っているのに、背中は寒気でゾクゾクした。

 ――それは、途中まではいつも通りの、繰り返される夜の一つだった。夜も更け月も寝静まる頃、館に“侵入者”が現われるまでは。

 その黒く巨大な怪物は、何の前触れもなく唐突に現われた。蛇口の水を捻ったら出てきたとでもいうように、一体、また一体と湧いて出て、鋭い爪と牙で獰猛に襲い掛かってきたのだ。今まさに追われ逃げている少女は、怪物の襲撃によって叩き起こされたままの寝間着姿だった。もうすっかり目も頭も冴えていたが、まだこれがただの悪い夢なのではないかという希望を捨てきれずにいる。

「こっちに来ないでよ!」
 少女はよく通る声で叫び、迫りくる複数の怪物に向けて、厳つい手持ち大砲を構える。大きな武器の似合わない細腕には、怪物の爪痕が痛々しく刻まれていた。輝く赤髪は乱れ、清楚なネグリジェは煤で汚れている。

「ああ、もうっ!」
 こちらの言葉に一切聞く耳を持たない怪物に、少女は大砲を放った。鈍い砲音を追うように白い煙がむくむくと雲を作る。砲撃により二体の怪物が吹き飛び、離れたところで動かなくなったが、それも焼け石に水だった。怪物は次から次へと現われるために、いくら倒しても間に合わないのだ。

 怪物達は初めこそ攻撃の度にある程度怯んだ様子を見せていたが、回数を重ねていくにつれ恐怖に慣れた様子で、もはや威嚇効果は殆どなくなっている。当たれば傷を負い命を失うというのに、怪物達にはまるで個の生存欲求が無いようだった。統率の取れた行動から一定の知能は見て取れたが、そこに感情はない。がらんどうと落ちくぼんだ眼孔で、喜怒哀楽のどれも知らないように、ただこちらに向かってくるのだ。

 怪物は大砲の煙の向こうから飛び出し、少女に向かって跳躍、一直線に距離を詰める。悲鳴さえ上げられずに硬直する少女を、その黒くぬめりとした手が捕らえた――かに見えたが、爪先が少女に届く前に、その腕は体から切り離された。

 怪物の腕を荒々しく断ち切ったのは、ギザギザと歯の連なる大きな斧だった。歯車のような形状で回転し、血肉を飛び散らせる。その恐ろしい武器と、武器を振るった熊のような大男を見て、少女は足元から崩れ落ちそうになった。恐怖からではない。慣れ親しんだ気配と姿に安堵し、力が抜けたのだ。フラフラと座り込みかけた少女の腕を、男の太い腕が掴んで体ごと引っ張り上げる。

「しっかりしろ! 逃げるぞ!」
 野太い声の男は、寄って集る怪物を斧で薙ぎ払うと、そのまま走り出した。少女は自分を引っ張るあまりに強い力と勢いに、凧揚げの凧になる。

(逃げる? どこへ? 安全な場所に?)
 そんな場所があるのだろうか。逃げる選択肢を選んだ者に、その後本当の意味での安寧は訪れるのだろうか。敵わない脅威が存在し続ける限り、怯え続けるしかないのではないだろうか。きっともう二度と、今日までの平和で幸せな時間は戻らない。壊れてしまった。壊されてしまった。一瞬で奪われてしまった。

 怪物達が火を放ったのか、館のあちこちで赤黒い炎が渦を巻いている。襲撃を受けてから恐らくまだ半刻も経っていないだろう。だというのに、ここは既に自分達の城ではないのだと、少女は涙した。ほんの一時間前までは想像もしていなかった現状が、悲しくて仕方ない。その原因の怪物が、憎くて仕方ない。

「なんでこうなるのよ……なんで! アタシが何をしたっていうの!?」
 少女は散らかった感情のまま、男に八つ当たりした。男は彼女の何倍も大きな声でそれに怒鳴り返す。

「馬鹿もん! 黙って走れんのか!」
「なによ、なによこんな時ばっかり偉そうに! アンタはダンマリが得意でいいわよね、この陰険根暗引きこもり野郎!」

「ご主人様、奥様、こちらへ! 食堂の裏口から外に出ることが出来ます!」
 言い合う二人の前に、若い女の使用人が現われる。少女は自分が慕ってやまない彼女の無事に、熱く目が溶けるのを感じた。悲しみと憎しみが吹き飛んで歓喜が湧き上がる。

「無事だったのね!」
「はい。さあ、私に付いて来てください!」
 力強く芯の通った声。鼻に付くところのない、すっきりとした理知的な顔立ち。少女は彼女を感じるだけで体全体に力がみなぎり、生きる活力が戻ってきたように感じた。彼女がいるなら、きっと何とかなる。逃げた先でももう一度、自分たちの城を築き上げられる。少女が自分の足でしっかり走るようになったのを見て、男は少し安心したようだった。

 女に導かれ、二人は階下の食堂に向かう。途中何度か危険はあったが、三人は何とか逃げ延びることができた。今は男が放った手榴弾が上手く作用し、追手もない。幸運なことに、辿り着いた食堂にも怪物の姿は見当たらなかった。走り通しだった三人は一旦、息を整える。

「他の、使用人たち、は、どうなったの?」
 喉をぜいぜい言わせながら、途切れ途切れに少女が尋ねた。女は少しも迷ったところを見せず、少女よりも整った息ではきはき答える。

「旦那様が、早急にご指示を下さいましたので。大きな、問題はありません」
「……そう、良かった」
 それは恐らく完全な真実ではない。配慮された回答だ。しかし彼女がそう言うなら、それ以上追及すべきではないのだろう。少女は小さく頷いた。

 女はいつも通り落ち着いた顔をしていたが、その美しく肉の削げた薄い頬は、今はげっそりして見える。彼女が気丈に振る舞えば振る舞う程、少女にはその姿が痛々しく見えてしまった。彼女がこのような時でも、冷静で忠実な使用人らしくあるのは、自分達の為だろう。これ以上彼女に心配をかけたくない。気遣いをさせたくない。甘えてはいけない。頼ってはいけない。守られる存在でいては、彼女は無理をしてしまう。

「では、行きましょう」
 女はそう言って、裏口の扉を開く。すっと入り込んできた開放的な外気に、もう何年も外に出ていないかのような恋しさを感じた。

「あの怪物は恐らく時計塔から出現しています。館を出たら逆方向に逃げてください」
「時計塔……?」
 女の言葉に、少女は目を丸くする。

 館の隣に建てられたばかりの、天高く聳え立つ時計塔。それは街の時間を司る強力なエネルギーを有した塔で、他の誰でもない少女が心血を注いで作り上げた傑作だった。

「怪物は時計塔から出てきているの? アタシが作った時計塔が……アタシが原因?」
「今はそんなことを言っている場合じゃないだろう!」
 衝撃に打ちひしがれる少女を男が叱責するが、少女の心は戻らない。少女は素早く彼の手を振り払うと、その場から駆け出していた。一刻も早く、時計塔に向かわなければならない。もし自分が原因なら、何とかしなければならない。責任を取らなくてはいけない。体を突き動かすのは、その一心だけだった。

「奥様! ……×××!」
 女が少女の名を呼び、その後を追おうとする。少女は自分が聞いたことのない彼女の声に、彼女らしからぬ取り乱した声に驚いて、足を止めて振り返った。……そして、上で揺れている影に気付き、顔を上げる。

 天井からぶら下がった豪奢なシャンデリアの上には、ここに来るまで嫌という程見てきた黒い姿があった。それは明らかな悪意を持って、シャンデリアの上で、跳ねる。ギ、ギ、と嫌な音が鳴る。まずい、と思った時にはもう、シャンデリアを吊っていた太いロープはぶちりと切れていた。

 少女の目線を追うように、女の顔も上を向く。その顔はサッと青くなるが、すぐに少女に視線を戻し、その体を思いきり突き飛ばした。突き飛ばされた少女の体は、冷たい床に投げ出される。

 それは本当に、一瞬のことだった。

 床の固さに少女が顔を顰めた瞬間、けたたましい音と衝撃が少女の世界を覆い尽くす。少女は瞬間的に死を覚悟したが、いつになっても予想していた痛みは訪れない。妙な静寂と、嫌な予感の中、恐る恐る目を開けると……

 ――居なかった。

 どんなに目を見開いても、先程までそこに居た彼女の姿は、どこにも見つけられない。居る筈の場所には天井から落ちてきたシャンデリアが、破片を散らして潰れている。

「……?」
 痛む体を起こしながら、少女は首を傾げる。何がどうなったのか理解できなかった。

 切れたロープにぶら下がっていた怪物は床に降り立ち、少女に飛びかかろうとしたが、その脳天にはすぐさま回転斧が突き立てられる。怪物を仕留めた男は、その屍を邪魔そうに振り払うと、複雑な表情で少女を見た。焦ったような、心配しているような、かける言葉が見つからないというような様子に、少女は眉を寄せる。気遣うその表情が煩わしくて、苛々して、どうしようもなかった。

 何故そんな顔をするの? そんな顔をしなくてはいけない何かなんて、無いじゃない。あっていい訳ないんだから。……ねえ、そうでしょう? と同意を求めたい女の姿は、やはりどこにもない。

 立ち上がることもできず、座り込んだままの少女の膝元を何かが濡らした。大きな青銅のシャンデリアの間から、赤いドロリとしたものが流れている。

「なに、これ」

 きっと全部、アタシがいけなかった。
 アタシが塔に向かおうなんてしなければ。時計塔を作ったりしなければ。この街に来なければ。彼女と出会わなければ。アタシが居なければ。

 きっと全部、アタシの所為だ。
 アタシの所為で、彼女はいなくなってしまった。アタシの存在が、彼女を……。

(最期の瞬間、彼女は一体どんな顔をしてアタシを見ていた?)

「い、イヤ、イヤよこんなの」

 頭がぐらぐらした。世界の輪郭がぐにゃりと歪んで、どんどん遠ざかっていく。どこか暗いところへ、自分の体が落ちていく。
 耳慣れた声がアタシの名前を呼んだ気がするが、もしかするとそれは、アタシの名前じゃないのかもしれない。だから、もう、なんにも、知らない。知らない知らない、知らない。

 知らない。

 少女は気を失い、その場に倒れこんだ。悪夢さえ此処よりはましだろうと、無意識下に逃げ込むように。

 カチリ。 どこかで何かが、止まる音がした。 inserted by FC2 system