Act8.「世界確立論」



「まず前提として、この国は非常に曖昧な認識で確立されている」
常盤は分からないことがあれば話を折っても構わないと言っていたが、は彼の一言目から、首を傾げることとなった。
常盤はそれを予測していたかのように、柔らかい苦笑を浮かべる。それから、まるでに見せるようにゆっくりと、自分の前のカップにソーサーを被せた。湯気が途切れる。意図の掴めない彼のその行動は、まるで予定されていたもののようで、明らかに意味を含んだものだった。
本当に手品でも始めるのだろうか、と不思議そうに彼とカップを交互に見るに、常盤が尋ねる。

、今、このカップの中には何が入っている?」
「……ココア、ですか?」
テーブルの上には、同じカップが三つある。の前のカップには、非常に濃いココアが入っていた。見た目も味も、間違いなくココアだ。ちら、と隣を見る。黄櫨の手元に納まっているカップの中は、チョコレート色。カカオの香り。これも、ココアだ。
そして、先程常盤のカップからも同じ香りがしていた。中に、同じ色が揺れているのが見えた。涼しい顔をして、よくそんな甘いものが飲めると、確かに自分はそう思ったのだから。

「本当にそうか?何故、そう思った?」
「何故も何も……。わたしはその中身がココアなのを見たし、匂いも嗅いだんです。だからその中身はココアです」
「君が見たというのは、ソーサーで蓋をされていない状態のカップの中身だ。今のこのカップの中身を見たわけじゃないだろう」
は、薄々話の輪郭を感じ取り始めていた。しかしその手触りは、なんと薄く脆いものなのだろう。

「私が訊いているのは“今の”このカップの中身だ。さっきまでの過程が無ければ、このカップの中は、誰にも分からない筈だろう?つまり、だ」
確かにソーサーで隠されている中身は、透視能力でもない限り知ることは出来ない。ならば、つまり、

「今このカップに入っているものは、コーヒーかもしれないし、紅茶かもしれないって事ですね」
説明の続きをしようと口を開きかけていた常盤が、驚いたような顔でを見る。そしてあまり嬉しくなさそうな顔で「正解だ」と告げて、ソーサーを在るべき場所へと戻した。

「誰にも認識されていない存在は、無限の可能性を秘めているということだ。今はこうして私たちの前に姿を現したココアだが、先程まではコーヒーにも紅茶にも、雛鳥にだって成り得たかもしれない。まあ、理論上だがな」
観測者に認識されて初めてその物は存在を確立される。どこかで聞いたことのある話だと、は思った。テレビかもしれない、本かもしれない。ああ、確か、猫、が―――

「箱の中の猫の話か?」

一瞬、心臓が静かに跳ねた。ひやりと、どこかが冷えている。わたしは、何も口には出していないのに。常盤に心を読まれたは驚いた様子で、彼を見つめた。それは。大したことではなかったのかもしれない。鋭いものならば、または彼女と波長の合うものならば同じように先読みできたかもしれない。しかし、彼のタイミングはあまりにも良すぎて、悪すぎた。
は自身がどのような顔をしているのか自覚はなかったが、彼女の瞳にあるものは未知のものへの恐怖と警戒だ。常盤にとってその反応は予想外だったようで、慌てて弁明する。
「なんとなく、何かを思い出しているようだったから、もしかしたらと、思ったまでだ」
「そうですか」
たどたどしい喋り方は、の小さな疑念を膨らませる。有り得ない話だけれど、ここでは有り得ないかどうかなど、分からない。ウサギ人間やネズミ人間がいるくらいなのだ。心が読める人くらい居たって、おかしくないのかもしれない。寧ろ、前者よりは現実的に思える。

彼に本当にそのような力があるのならば無意味でしかないが、は自身の中のに膨らむ疑念を隠し、努めて平常を装った。しかし聡い少年からすれば、それは不自然なものだったのだろう。黄櫨が、やれやれと溜息を吐いた。

「安心していいよ。こんな鈍くて無神経なやつに人の心なんて読める筈が無いから」
黄櫨の常盤に対する無遠慮な物言いに、常盤に気を遣っている訳でも無かったが、は納得できなかった。黄櫨はまるで別人のことを言っているのではないかと思うくらいに、それらはに手を差し伸べた人物に当てはまらない。

しかし、「僕が保障するよ」と無色透明な表情のまま胸を張る黄櫨がどこか滑稽で、彼と、彼に対して生意気な奴だと文句を垂れる常盤のやり取りに、は肩の力が抜け、自然と自分の口角が上がるのを感じた。

、笑えたんだね」
黄櫨が、声だけは驚いたように言った。はその言葉に、はて、と首を傾げる。自分では、彼らに会ってから何度も笑顔を浮かべていたと思っていたが、そうでもなかったらしい。確かに、顔の筋肉が固くなっている。錆び付いてギシギシ軋む頬肉に、随分と長い間笑っていなかったかのように感じたが、それは錯覚だ。今日の夕方まではたくさん笑っていたのだ。親と、友達と、親友と。
―――まあ、いい。これで少しは話をしやすくなった。がもう一度笑って、常盤に話の続きを促した。

「話が逸れてしまったな。確か、箱の中の猫がどうとか、そういう説の話だったろう」
は頷き、次の言葉を黙って待つ。

「君が思い浮かべた猫の話は、量子力学において、世界を造っている粒子は様々な状態で重なり合い、それを観測することによっていずれかの存在に収縮する。と、いうものだ。その具体例が、猫を使った仮想実験になる」
それから続けて、彼は実験の内容を説明した。その内容はも知っている有名なものだ。

猫を使った残酷で理不尽な仮想実験の内容は、こうだ。

蓋のある箱に猫を入れて、箱の中に毒物を発生させる装置を入れておく。その装置が作動する確立は50%。毒物が発生すれば、猫は死ぬ。そして逆もまた然り。猫の生死は、誰かが蓋を開けるまでは分からない。

―――つまり、その状態が、彼の言う“重なり合った”状態である。


「この説は巨視的に量子力学の確立解釈を実験系にしているが……」
時々言葉が濁ったように小さくなるが、きっと難しい部分は省いて易しく説明してくれているのだろう。仮想とは言え猫は本当に気の毒だが、このような仮説について考えることは、楽しい。
は、彼の話に心から興味深そうに、頷く。


「どうだ?私の説明で分かるか?」
「分からないことも多いですが、観測するまでの、どちらつかずの重なり合った状態は分かりました」
「それでいい。曖昧に理解した方が分かりやすいこともある。私たちは学者ではないからな」
の中に彼の言葉がストン、と落ちていった。成る程。彼の言うように、物事はあまり深く考えない方が理解しやすいのかもしれない。深く考えると、理解しきれないことが増えて、疑念ばかりが増大し、考えるのが嫌になってしまう。そこで考えるのが嫌にならない人が、不明瞭な部分を解き明かしたいと思う人が、学者になるのだろう。

「実質的にはこの世界の礎とその説は似て異なるものだが、この際一緒にしてしまってもいい。恐らく君には理解できないだろうからな。………そんな顔をしないでくれ。私はそれでいいと思っている。四角いものを四角いものとしか見れない者には、一生理解できないことになっているんだ。しかし四角いものが丸く見えてしまったら、君の世界では生きていける筈がない。だろう」
これを理解しては、あれが理解できなくなる。その双方が同じ空間に共存している世界。は、自分の暮らしてきた世界があまりに狭く、あまりに安定しているのだということを知る。

。この世界では“認識”が最も大きな力を持っている。認識が、世界を成り立たせているんだ」
はちらりと隣に目をやる。黄櫨は黙ったまま、手元のなんだか字がいっぱい連なった本に目を落としている。前髪で目が隠れて、寝ているのか起きているのか分からなかった。が、多分起きているのだろう。彼は眠らない眠りネズミなのだから。

「観測者が、この世界をこの世界だと認識する。それで、この世界は確立される」
「……よく分からないですけど、それでいいんですよね」
ああ、それでいいんだ、と常盤は満足げに笑んだ。にはそれがどこか安堵の笑みに見えて仕方がなかった。まるで、彼は説明しながらも、わたしに理解して欲しくは無さそうなのだ。

「でも、それだとこの世界はひどく曖昧じゃないですか」
「そうだな。けれど一度根付いた認識がぶれることなど、それこそ難しい。だからそれ程安定していなくも、なかったんだ」
ふ、とその表情が翳る。は彼の言葉が既に過去のものだということに気付いて、眉を寄せた。よく分からないけど、よく分かる、そんな気がしたのだ。

「状況が、変わったんですね。観測者の認識が、ぶれようとしているんですか?」
状況、と口にしてなんとなくピーターの『状況は違う』という言葉を思い出した。きっと今この国は、今までのこの国とは異なった状況なのだろう。変わってしまった、否、きっと、変えられてしまった。根拠の無い確信の篭った瞳は常盤を戸惑わせたが、至って平常を装いながら彼は頷いた。

「そうだ。今、この世界は唯一無二の観測者によって、その手でまるで無かったものとして消し去られようとしている」
「もしかしてその観測者は、アリス?」
だから、彼女はこの国にとって野放しにしておく訳にはいかない、大罪人。そういうことなのかと目で問うと、常盤は揺れる瞳でまた、頷いた。今までの流れから、が自ら答えに辿り着くことに彼はあまりいい顔をしなかったが、がその答えに辿り着いたのは彼女にとっては当然の流れだったのだ。不思議の国の主人公はアリス。彼女だけが他の登場人物と明らかに異なる存在だ。彼女は不思議の国を外側から観ることのできる唯一の人間であり、つまり観測者ということになるのならば、ピーターの言っていた彼女の罪が分かる。けれど、まだまだ納得しきれていない。

「でも、常盤さん。さっき、認識がぶれることは難しいことだと仰いましたよね?」
「ああ。一度四角いと気付いたらそれを丸いと思うことはまず出来ないだろう?しかし、もしその四角いものの存在自体を忘れてしまったら、そこに四角いも丸いも無くなるんだ。全てが消える」

そしてアリスは、忘却の術を手に入れた。と、常盤は静かに言った。

観測者が忘れてしまえば確立不能になる世界。常盤はさも普通のことのように言うが、には到底理解しがたい摂理だった。

「認識されて始めて成り立つ世界って、そんなのおかしくないですか?だって、そこに成り立っているからこそ認識できるんだから、順番が逆ですよ」
「いや、観測者に認識される前も、この国はちゃんとあった。ただ、成り立ってはいなかった。それを、観測者が見つけて認識して、確立させた」
頭の中がごちゃごちゃになってきた。は、目を閉じて話を整理しようと試みる。つまり、アリスという観測者が居て、彼女が存在する前のひとつの世界を見つけ、それを不思議の国だと認識した。不思議の国は観測者に認識されていることでその形を存続でき、観測者が忘れてしまえば存在そのものが無かったことになる。アリスは不思議の国を忘れる方法を見つけ、今この国は消滅の危機を迎えていて、それを食い止めるためにアリスを指名手配している。ということだろうか。分かるようで全く分からない話だ。もう一度初めから繰り返してみたところで、は疑問にぶつかる。

「アリスを捕まえたところで、どうやって忘れないでいてもらうんですか?」
所々が酷くシビアなこの国には、話し合いで分かってもらうなんて穏やかな方法が通用するとは思えなかった。なら、もう保身の術は残っていないように思える。本人の意思に反して忘れないでいさせることなんてできるのだろうか。いや、でも忘れるってどうやるのだろう。ああ、ほら、訳が分からない。

「……忘れてしまう前に、観測者本体を消してしまえばいい。本体を失っても“認識されていた”という事実は残り続け、その時初めてこの世界は永遠にぶれることのない安定を手に入れる。つまり、―――アリスは見つかり次第、即刻処刑にかけられるだろうな」
常盤は言ってから、後悔した。これからこの少女はアリスを捕まえなければならないという話をしているのに、捕まえた後にその者がどうなるかなんて知ってしまえば、そのあまりに重い役目に衝撃を受けるのではないか。しかしそんな心配を他所に、は平然と彼の言葉を聞いている。

「それで、わたしがその人を見つけて捕まえるんですね」
特に会話の温度を下げることも無く、暗に一人の人間を処刑台送りにするということを口にしたに、黄櫨がハッとして彼女の顔を見る。

「わたしはそれを全うすれば、帰れるんですか?」

彼女は事もなげに、そう言った。

しかし、その様子はどこか覚束ないもので、表情は朧朧たるものだった。 inserted by FC2 system