Act7.「ホットココア」



どうやら、ピーターがを置いていった場所は常盤の家のすぐ前だったらしい。気に留める余裕も無かった風景は、改めて見れば門らしき鉄格子もあり、その奥にはレンガ造りの洋館が佇んでいた。門を入って数歩行ったところで、小学校中学年位の男の子が二人を迎える。彼の弟だろうか。まさか息子なんてことは無い……だろう。ちらりと常盤の様子を窺うと、こっちが口を開くよりも先に、「同居人だ」と教えてくれる。小さく「親子じゃないからな」と付け加えて。……そんなにわたしは何か言いたげな目をしていただろうか。

黄朽葉色の髪を綺麗に切り揃えたその少年は、その華奢な体には大きすぎるアイボリーのカーディガンを身に纏い、空色のマフラーを首に巻いている。大きな黄色い瞳はどこまでも澄んでいて、そこには無垢な少年のあどけなさと、大人びた知性の両方が共存していた。頭にちょこんと乗っかった小さな丸い耳らしきものについて触れるのは、また後でいいだろう。

「こんばんはお姉さん。おかえり常盤」
少年の何もかもを見透かすような瞳に見つめられて居心地の悪さを感じていただったが、その視線に敵意がないことを知って緊張の糸を緩める。彼もまた、自分を受け入れてくれるのだろう。は微笑と共に、挨拶を返した。

少年の名前は黄櫨というらしい。
彼と常盤が二人きりで住んでいるという家は、外観は小洒落たホテルのようで、二人暮らしには明らかに大きすぎた。
頑丈そうな木の扉を通ると、身が締まるような香りがする。事務的な、整理整頓された雰囲気が、そこにはあった。絨毯の敷き詰められた廊下を靴のまま歩くことは、のような生粋の日本人には不慣れで違和感があったが、靴が脱げてしまった方の足は柔らな感触に歓喜する。そこでは、片方だけ靴を履いているという自信の状況に気が付き、恥ずかしくなって慌ててもう一方も脱いだ。ふと前を見ると、振り返った常盤がそんなを見て、「気が付かなくてすまない」とスリッパを差し出した。……靴箱もないのに、どこから出したのだろう。

暖炉が静かに燃える暖かい部屋に案内されたは、一目で上等だと分かるソファに腰を掛けるように言われ、そっと身を沈ませる。しかし柔らかなそれは想像以上に深く沈むものだから、思わず小さな悲鳴を上げてしまった。そんな彼女に少し笑いながら、常盤はにここで待っているようにと言い、黄櫨にはの手当てをするように言って、部屋を出て行ってしまった。

「よいしょ」
と少年はのすぐ隣に腰掛けて、その体を彼女の方に向ける。そしてその小さな手の平をに差し出した。黄櫨の行動に疑問符を浮かべるに、小さな口が「手当て」と言う。

「大丈夫だよ。本当に、大したことないの。小さなかすり傷ばっかりだし」
「手当しないと、僕が常盤に怒られる」
は、自分より幼い少年に傷の手当てしてもらうのは気が引けたが、そう言われてしまえば従うしかなかった。そっと、自分の手を少年の手に重ねる。
彼の横には、救急箱。またも、どこから取り出したのかわからない。この家は手品師の館なのだろうか。

黄櫨はの傷に眉一つ動かさず、淡々と、手際よく処置を施していく。崖を滑った時の一番大きな傷も、既に瘡蓋ができており消毒液が染みるようなことはなかった。

「絆創膏、いる?」
「うん。でもそれくらいは、自分で貼るよ」
そう言ったに、往生際が悪い、と言わんばかりに黄櫨は溜息をついた。年下の少年の窘めるような態度は、通常であれば頭にくるものだろう。しかしは、彼の持つ独特の存在感と雰囲気に恐縮してしまった。

「手当てっていうのは、手を当てることなんだよ。そしてその手は、他人のものの方が効果がある」
「え?」
は、傷を癒す手が傷だらけなのと、傷一つない健康な手なのと、どっちがいいと思う?」
「それは……健康な手、かな」
「ほら、そうでしょ」
当たり前の顔をして語る少年の不思議な持論に、は「マイナスとマイナスは、乗じるとプラスになるよ」なんて無粋な屁理屈を飲み込んだ。手当ては、自分じゃない誰かの手の方が効果がある。事実はどうか分からないが、怪我して弱った精神が人の優しさに触れると言うことは重要かもしれない。そして精神と身体は密接な関係にある。だとするならば、彼の持論は納得できるような気がした。それになにより、無表情な彼から出てきた理屈にしては意外で、可愛らしかった。

一通りの手当が終わると、役目を果たした救急箱は姿を消していた。その行方を探すの隣で、黄櫨は静かに本を読み始める。救急箱に気を取られて、今度は本の出現を見逃してしまった。

「手当てしてくれて有り難う」
「うん」
視線を本に落としたまま、黄櫨がぼんやり返事をする。すごい切り替えの早さだ、とは感心した。


常盤はまだ戻ってこない。手持ち無沙汰になったは、どうしたものかと思い、……これから何が起きても落ち着いて対応できるように、一度肩の力を抜いてみることにした。遠慮がちに背もたれに寄りかかる。ふわふわしていて、背だけでなく頭も預けると、ああ……途端に眠気が襲ってきた。危ない、危ない。は睡魔に抗うように、なるべく思考を働かせようとあちらこちらへ視線を彷徨わせる。
壁に掛かった花の絵、空の絵、海の絵。それはまるで、竜宮城の四季の窓のようだ。オレンジ色の炎が燃えている暖炉。深緑色の絨毯。どれも上等なもののように見える。そうして一通り見て回った後にもう一度、ソファを見た。ソファは、常盤のしていたリボンと同じ暗い紅色で、落ち着いた色をしている。は体育館のステージ裏のカーテンを思い出した。グランドピアノが似合いそうな、色だ。
ふと視線を感じて隣の彼に目を移せば、黄色い瞳はいつの間にかまた、じっとを見ていた。

「なにか面白いものでもあった?」
「え、ううん、なんでもない。ごめんねきょろきょろしちゃって」
ここは博物館でも美術館でもないのだ。人様の家の中をじろじろ見回すなんて、あまりに失礼だったとは反省する。けれど彼はそんなことは全く気にしていない様子で、本当に、が何に興味を持ったのかが知りたいだけのようだった。見知らぬ人物の、“人”を探ろうとしているのかもしれない。

「そういえば、ちゃんと自己紹介してなかったね。わたしは。近くの森で迷って困っていたところに、常盤さんが声を掛けてくれたの。突然知らない人の手当てをすることになって、驚いたでしょう?」
「驚いたよ。知らない人じゃなかったから」
知らない人じゃない、と彼は言う。それはつまり以前から“のことを知っていた”ということで、しかし初対面なのだから、彼がの事を事前知識として持ち合わせている筈がない。
少年の年不相応な落ち着き様で忘れがちだが、彼の年の頃はちょうど、反射的に知ったかぶりをしてしまいがちになる頃だ。きっとこれも、子供特有の未完成な承認欲求から来る意味のない言葉の一つ。敢えて追及することも、否定する事もない。手当ての時の会話から少年の意外性・可愛さを垣間見ていたは、そう思う事にした。

「そっか。でも、わたしは黄櫨くんのこと、何も知らないから、教えてくれると嬉しいな」
「……いいよ。僕は、黄櫨。ここで常盤と暮らしてる。眠りネズミの黄櫨だよ」
「眠りネズミって……君はネズミなの?」
「うん、そう」
今度は、幼い子供の戯れ言ではない。何故ならここは不思議の国で、不思議の国には眠りネズミがいるもので、そして何より彼の言葉を証明するように―――その頭には可愛らしいものが二つ、付いている。

「素敵なお耳だね。少しだけ、触ってみてもいい?」
がそう言うと、黄櫨の丸い目がより丸くなる。分かりにくいが、少し驚いているようだった。それもそうだ。出会ったばかりの他人に耳を触らせてくれ、なんて礼儀知らずにも程がある。はそれを重々承知していたが、やはりどうしても、触れて確かめたいのだ。目の前に存在するものが確かに「不思議」であると、確認したい。
人間の頭に生える獣の耳。現実めいた不思議の国でそれだけがはっきりと明確に、具現化しているもののように思えた。

「まあ……別に、いいよ」
そう言う黄櫨の頭に、は遠慮がちに手を伸ばす。は少年がいつでも拒めるようにできるだけゆっくりとした動作を心がけたが、彼がその手を払いのけるようなことはなかった。

指先が丸い耳に触れる。冷たい。細かな毛がふわふわしている。思っていたより薄い。柔らかい。指先でその存在を確かめたは、次に手で包み込むようにして撫でてみた。
されるがままになっていた黄櫨だったが、それはどうやらくすぐったいらしく、まるで手の中から逃げるように両の耳をぴくりぴくりと動かす。はごめんなさい、と言って慌てて手を引いた。黄櫨は何も言わなかったが、特に気を悪くした様子もない。いや、読みとれないだけかもしれない。表情の乏しい子だ。

再び本と向き合う少年の横顔を、は見つめる。

表情が乏しい。思考が読み取れない。それだけでは、ない。
透き通る瞳。白い頬。小さな口。彼には、人形のように清らかで常なるものがあった。それは、彼が血の通った生物であるということを忘れてしまいそうな程に、無機質で―――神聖だった。

「黄櫨くんは、眠りネズミなのに眠ってないんだね」
読書の邪魔をしてしまうことに悪いと思いつつも、が疑問を口にする。無愛想な表情に反して優しく丁寧な対応をしてくれる黄櫨は、ソファからぶらさげた足を子供らしく揺らせて、うん、と頷いた。

「僕、あまり眠るのは好きじゃないんだ。眠ると、眠っている間の世界がどこかへ消えちゃったような気がして、損したみたいだから。常盤には、よく怒られるんだけどね」
眠らない眠りネズミ、なんて。変なの。そういえば、アリスを追いかける白ウサギ、なんてのも変だ。なんて素直じゃない世界なんだろう。


カタ、とドアが開かれ、常盤が戻ってきた。彼の手には、湯気立つカップを三つ乗せたお盆がある。白く立ち上る湯気は見ているだけで体が温まるようだった。しかし、お礼を言ってそれを受け取ったは、その中身に躊躇する。

カップの中身は、ホットココアだった。

濃いチョコレート色の水面は、カップを傾けるとトロリと揺れる。その重量感は、の好みとはかけ離れていた。しかし、これは穴の中の引き出しのお菓子のように、指先一つで差し出されたものではない。わたしの為に、淹れられたものなのだ。さすがに、その手間と好意を無碍に扱うことはできなかった。

ふう、と息を吹きかける。できるだけ丁寧に、時間をかけて、冷ましていく。常盤と黄櫨に見守られながら、一口、口に含んだ。
……甘い。チョコレートを練って練って、ミルクと混ぜた味。濃厚な甘味。しかしそれだけではなく、杏のような酸味のある香りもする。甘いだけではない深い味わいと、冷えた体を溶かす温度。は意外にも率直に「美味しい」と感じた。しかし、二口飲むと満足してしまう。
落ち着き払った大人の表情でカップを傾ける彼らが、とても同じものを飲んでいるとは思えなかった。

「どうだ、少しは暖まったか?」
「はい。有り難うございます。まるで生き返ったみたいです」
好みは別として、そのココアは今のの体には調度良かったようだ。トロリと胃に落ちた熱は身体を急速に暖め、チョコレートそのもののような濃い甘さは、若干感じていた眠気を吹き飛ばして意識を鮮明にしてくれる。

の返答に、常盤は安心したような満足したような、柔和な笑みを浮かべた。しかしその表情は、一瞬の間を置いて真剣なものに変わる。ああ、体が暖まったから、いよいよ本題に入るのだ。は、自分に向けられる強い眼差しに、肩に力が入るのを感じた。

「そんなに体を硬くしなくてもいい。が、真面目に聞いて欲しい話だ。この世界について、それとこの世界で今何が起こっているかについて、他にも、君の任せられた白ウサギという役について。本来なら元白ウサギの奴が話さなければならなかったことだが、私が代わりに話そうと思う。……まあ、あいつがそうなるように仕向けたんだがな」
は彼の言う“仕向けた”の意味が呑み込めずに首を傾げる。常盤はを急かすことなく、彼女自身が理解するのを待っているようだった。程なくして、は「あ」と声を上げる。

「あの人がわざわざ常盤さんの家の前で銃を撃ったのは、そういうことだったんですか?」
常盤は、そういうことだ、とここには居ない彼に呆れ果てたような声を上げた。
はどっと、疲れが体にのしかかってくるのを感じた。これは、安堵だ。あの時のピーターの発砲が自分に向けられたものではないということが確定して、その過去の真相に、安堵したのだ。

それにしても、あんな大きな銃声を轟かせなくたって、一言かけていけばいいじゃないですかね!というの言葉は、しかし口から出る前に、常盤の言葉でしぼんで消える。

「あいつは昔から、何かと厄介事を私に押し付けてくるんだ」
嗚呼、ピーターが面と向かって常盤にのことを頼んでいかなかったのは、それでは彼に受け入れてもらえないと考えたからではないだろうか。
はマグカップの側面を強く握り締めた。触れ合った部分からは程良い温かさがじんわりと伝わってくる。早く身体が温まるように、という優しさの込められたココア。しかし決して歓迎されているわけではないのだと思うと、とても、申し訳なかった。

悪いのはピーターで、厄介事扱いされる謂れはわたしには無い。だが、今現在彼に迷惑をかけているのは間違いなくわたしの存在だ。目の前の二人が不憫で、自分が可哀想で、居た堪れなかった。

「すみません」
そう謝るに、常盤が不思議そうな顔をする。それが次第に訳が分からない、という困惑顔に変わると、手元のカップに視線を落としていた黄櫨が、どこまでも平らな声で常盤の名を呼んだ。彼がの隣ではなく常盤の隣に腰掛けていたなら、間違いなく、その肘は彼の脇腹を小突いていただろう。黄櫨の目には、諌めるかのような色があった。そして常盤は自分の失言に気付き、顔を俯かせたままの少女に慌てて弁明した。

「いや、違うんだ。別にのことを厄介事だと言っているんじゃない。本当だ。厄介だと言ったのは、……が抱えさせられた問題に対してだ」
だから君が謝る必要はどこにもない、とどこまでも優しげな声に、は伏せていた顔を上げる。……彼は、その親切さ故に苦労しそうだな、と思った。いや、実際にそれで、今の状況にあるのだろう。苦労を運んできた自分がすべき心配ではないと思いながらも、は同情せずにいられなかった。


―――それにしても彼は随分と自然に、わたしの名前を口にする。


「では、説明を始めよう。何か分からないことがあったら、話の途中で遮ってくれて構わない。疲れたら言ってくれ。いいか?」
は、頷いた。


さてさて、ここから始まるのは不思議の国の解体ショー。怖さ半分、楽しみ半分。

どうか、ガッカリだけは、させないでね。 inserted by FC2 system