Act6.「差しのべられた手」



がさり。立つことも出来ずにいるの耳に、草の音が聞こえた。それは風が立てる音とは違う人為的なものだ。誰かが、こちらへ近付いてきている。に緊張が走った。
もしかして、先程の兵士達がわたしを探しているのだろうか。彼らはわたしを不法入国者として扱っていた。不法入国者。法律を違反した者。考えもしなかったが、不思議の国にも、法律はあったのだ。
ここはわたしの知っている不思議の国じゃない。似ているけれど、陽気で愉快な部分が削られてシビアな要素が加えられている。現実的な夢の国。しかし、わたしの知っている今までいた世界とも、違う。私の知らない、不思議の国。

草の音が大きくなる。靴が土を踏む小さな音まで聞こえてしまった。誰かが、もうすぐそこに居る。は、どこか隠れることの出来る場所はないかとあたりを見回すが、遅かった。心構えも何も出来てない内に、誰かが、暗闇の中での姿をその目に捉える。そして、息を呑む。現れたのは、一人の若い男だった。
どうやら兵士ではないようだが、不審人物だと思われれば、彼らに通報されてしまうかもしれない。このままではアリスなんかを捕まえる前に自分が捕まってしまう。は少しでも距離を取るように、両手を胸の前で構えた。

「どうして……ここに、」
彼が、何に対してそんなに驚いているのかは分からない。が、予想に反してその男の声は柔らかく、敵意を含んではいなかった。それを感じ取ったは、多少警戒を解く。例え味方でなくても敵でなければ、利害の無い他人ならばひとまず安心だ。

その男からは、非常に洗練された印象を受けた。整った顔立ちに、スラリとしたバランスの良い体型。少し襟足を伸ばしたダークブラウンの髪。綺麗なアーモンド型の瞳は、理知的で神秘的な色を秘めている。その外見は、親近感を覚えるくらいには若かった。に切っ先を向けたあの兵士よりは上だろうが、それでもピーターと同じかまたは少し下位に見える。大人びて落ち着きのある雰囲気はあるものの、その辺の大学生に混ざっていたとしても違和感は無いだろう。ただしそれは、その服装を除けば、だ。
袖口を控えめなフリルが縁取るシャツ。その上にカッチリと着たベストには金の装飾ボタンが施されており、また細部には繊細な刺繍も見受けられた。胸元では深紅のリボンが、小さくともその存在を充分に主張している。痩身なパンツと革靴だけがシンプルなもので、全体を華美過ぎないトラディショナルな雰囲気にまとめ上げていた。
その服装は不思議の国の住人に相応しくファンタジックで、彼のような大人の男性には到底似合わないようなものに思えたが、その着こなしは驚くほど自然で紳士的なものだった。

男はを脅かさないよう、慎重にゆっくりと歩み寄り、座り込む彼女の目線に合わせるように片膝をついた。は彼のその動作に、童話の王子様めいたものを感じる。…… 相手がお姫様ではなく不法入国者では、様にならないかもしれないが。

「こんなところで一体、何をしているんだ?」
「あ、わたしは……、」
声は出るが、上手く言葉にならなかった。何から話せばいいのだろう。まず、どこから来たのかを話すべきだろうか?そもそもこの国の人々に、の世界の存在は一般的な知識の一つとしてあるのだろうか?
もし、自分が逆の立場だったら……とは考える。道にしゃがみこんだ人に心配そうに声を掛けたら、その人が突然「私は他の世界からやってきた異世界人です」なんて言い出す。そんな時わたしだったら、その人の頭にもし触覚やウサギの耳なんかが無い場合は、間違いなくその人の言葉を疑う自分を疑うことなく、つまり、その人を頭のおかしな人なのだと即座に決めつけ、逃げ出すだろう。
もし、相手がわたしの知っている『不思議の国のアリス』に出てくる、会話の成り立たないような帽子屋や三月ウサギだったら、上手く口車に乗せてどうにか切り抜けられたかもしれない。しかし、目の前でわたしの様子を見守っている男は、こんな格好でこんなところに蹲っているこっちが恥ずかしくなるくらいに『マトモ』だ。ここは、慎重に、言葉を選ばなくてはならない。けれどそう考えれば考える程、何も言葉にならない。―――ならば、嘘を吐くか?簡単に通る嘘を考え付くほど、今のわたしは冷静か?

困ったような顔で俯き黙り込むを見かねたように、男が質問を変えた。

「先程、この辺で銃声がしただろう。君は、こう……背の高い、眼鏡の男は見なかったか?」
「……白くて耳の長い人、ですよね。見ました。わたしは、その人にここまで連れて来られたんです。白ウサギのピーターさんって方、ですよね?それで、あ、でも……その人はもう、白ウサギじゃなくて、わたしが―――」
が言葉を選び選び、話す。緊張が言葉を途切れ途切れにしてしまっていたが、男は急かさず、が話し終えるまで何も言わずに黙って聞いてくれた。けれどその表情は次第に険しくなっていく。そしての次の言葉に、目を見開いた。

「わたしが白ウサギにならなくてはいけないと、白ウサギなのだと。……彼はそう言っていました」
ひとしきり驚くと、男は苦い顔をして立ち上がり、力強く握り締めた拳で近くの木の幹を殴った。木も、手も、どちらもとても痛そうな音がして、はまた身を縮こまらせる。穏やかで優しげな風貌からは想像も付かない程、乱暴な悪態をいくつか溢した彼は、そんなの様子に気が付くと小さく咳払いをして、「すまない」と詫びた。そして、すっかり地面に根を張ったに、手を差し伸べる。

「挨拶が遅れてしまったな。こんばんは、初めまして。私は常盤という」
「あ、わたしは……です。こんばんは」
良い名前だと、常盤は目を細めた。

「突然こんなところに連れてこられて、大変だっただろう。何か酷いことはされなかったか?嫌なことを言われたんじゃないか?怪我は?」
常盤は矢継ぎ早にそう言うと、遠慮がちにの姿を確認する。はこさえたばかりの切り傷やかすり傷を、さりげなく手で隠した。

「大丈夫です。それよりも、わたし……これからどうしたら良いのか、分からなくて」
の「大丈夫」という言葉に一切安心した様子の無い常盤だったが、不安げな彼女の様子に、追及よりも返答を優先してくれる。

「私なら、君の抱える問題について、ある程度の説明ができる。……だが、話は後だ。とりあえず私の家に来なさい。夜風に体が冷えただろう?話をするのは君が温まって―――傷の手当てが済んでからだ」
どうやら、全てお見通しらしい。の努力は無駄だったようだ。強がりがばれて決まりが悪くなり、は誤魔化すような笑みを浮かべる。だが常盤は笑みを返さず、固い面持ちで―――ごく静かにゆっくりと、に手をさしのべた。

呆然とした様子でその手と彼の顔を見比べるに、彼は「おいで」と、自分の手を取るように促した。その様子はまるで警戒する小動物を手名付けようとしているみたいで、彼が緊張しているのが分かった。そこに流れるのは、とても優しい緊張感だ。
腫れ物の自分を、ガラス細工のように丁寧に扱う彼。そんな彼に、は自分でも驚く程素直に自分の手を預ける。ピーターとは違い優しく引いてくれる常盤の手。その手に助けられながら、は立ち上がった。

自分より遙かに大きい彼の手は、堅くて暖かい。それにすっぽり包まれるようにして、手を引かれて歩く。手を繋いだままだった事に、不思議と違和感は感じなかった。


不思議の国の夜は一層、深まっていく。 inserted by FC2 system