Act5.「アンダーランド」



「動くな!」

 唐突な制止の声に、草むらから起き上がろうとしたは動きを止める。その声は白ウサギのものではない。彼よりも少し高いテノールの青年の声だ。全く状況が掴めていないものの、体は強く鋭い命令に直感的に従ってしまう。空気が一瞬にして張り詰めたものに変わっていた。

(一体、なに?)
 青年の声は背後からする。はできるだけ首を動かさないよう、目だけを動かしてそちらを窺った。そして、視界の端にちらつく物が何かを知り息を呑む。刃物だ。鈍く光る槍の先のようなものが、首の横に突きつけられている。

 キュッと心臓が縮み上がるのを感じた。息が止まり悲鳴さえ出せない。声の主はが大人しくしているのを見て、槍を少しばかり遠ざけ、情けなく上半身を起こしかけたままの体勢の彼女に「立て」と言う。は生きた心地のしない棒のような足を、どうやって動かしたのかも分からないまま、何とか立ち上がった。

 横目で槍の人物を見るが、青年の顔は帽子の庇で陰っていてよく見えない。着ている服は濃紺の学生服じみたものだった。白いゼッケンみたいなものが付けられていて、真ん中には赤いハートが一つ、大きく描かれている。頭の上の帽子は円筒状で、鼓笛隊を思わせた。
 その姿はお城の兵隊のようだったが、衣服や装備品に施された華美な装飾が、兵隊は兵隊でも飾りめいたおもちゃの兵隊を思わせる。もしここが遊園地ならば、スタッフと間違えてしまうだろう。だから余計に、手にしている物騒なものが不釣り合いで恐ろしかった。

「何者だ。一体ここで何をしている」
 青年の後ろには数人の兵士達が控えていて、皆一様にを警戒していた。は彼らの反応に、穴から落ちてきた時に多少は乱れているであろう自分の身なりを思い出す。しかしそれは、このような待遇を受けるものだろうか? 心配されるなら分かるが、責められる謂れはない。

 もしかすると、女子高生の制服自体が彼らにとっては見慣れない不審なものなのかもしれなかった。または、問題は姿形ではなく、この場所に居ること自体にあるのかもしれない。ここが立ち入り禁止の場所だった可能性がある。

 分からない。何も分からないが、少なくとも彼らの警戒が不適切なものであるということは分かっていた。自分は丸腰の女子高生で、彼らに危険を及ぼすものなど一つも持ち合わせてはいないのだから。
 ……とにかく何か弁明しなければならないだろう。しかし、適した言葉が見つからなかった。青年が訊いているのが自分の名前などではないということは分かっていたし、自分の現状を説明するにはまだ、思考の整理が追い付いていない。

「やはり……異世界人か。この森は異世界へ繋がりやすいと聞く。もう長いこと、迷い込んでくる者は居なかったのだが」
 の返答を待たず、彼は自分の中に答えを見つけたようだった。
 なんだ、分かっているんじゃないか! は自分を無害な迷い人として迎えてくれるのかと期待する。だがそれは裏切られた。

「異世界人はこの世界に混沌を招く、不吉で危険な存在だ。申し訳ないがここで始末させてもらう」
「えっ、ちょっと待ってください! わたしは……!」
 ようやく声が出せた。が普通の少女の声で話し始めたことで、青年は若干動揺して見えたが、すぐに「問答無用」と槍を構え直す。そして切先が素早くの首元に突き刺さる……かに思われたが、青年の行動を遮るように――否、その場の全てを一時停止してしまうように“轟音”が響き渡った。

 例えばその音を文字に起こすなら、ドキュン、ドカン、バコン。文字面は間抜けになりがちだが、実際は違う。空気が破裂し、衝撃が波となり、鼓膜を震わせる。それは重厚な銃声だった。

 青年が反射的に音の方を見る。驚いた彼が槍を持つ手を震わせなかったのが幸いだった。も繋がったままの首をおずおず回して、そちらを見る。

 それは、が背を向けていた方角。少し離れたその場所には、大きな銃身を悠々と構える長身のシルエット。森の影を吸い込み灰色によどむ白い癖毛。二本の耳。シンと静まり返ったその場に、彼の声が重く降りる。

「邪魔だよ」
 それは確かに白ウサギの声だった。を穴に突き落とし、ここへと誘った彼に違いない。声の抑揚は相変わらずで感情は掴み難かったが、しかし先程よりも確実に、それは低く冷たい。一陣の風が吹いて夏の夜の匂いがした。硝煙は、場違いな花火大会を彷彿とさせる。

 白ウサギはその手に提げたままのライフルで兵士達を牽制しながら、呆然としているに歩み寄る。そして彼女の腕を掴み、一言「行くよ」と言った。彼が纏う有無を言わさぬ威圧感に、兵士達はうろたえ、焦り、怯えていた。

「も、申し訳ございません! その、暗くてよくお顔が見えず、大変失礼なことを……」
 彼らは白ウサギと面識があるようだ。を捕えていた青年が彼に頭を下げ、丁寧に詫びる。しかし白ウサギはその長い耳が飾りであるかのように、彼に対して何の反応も示さず、無言でを連れてその場を後にしようとした。

「お待ちください! あなたの事情は存じ上げませんが、その少女は異世界人に見受けられます。我々の任務はこの国の安全を護ること! 危険な不穏分子たる異世界人を見逃す訳にはいきません!」
 青年は、兵士達のリーダーなのかもしれない。一番勇敢で落ち着いていて、責任意識の強い主張をする。は槍の先から逃れて安心したからか、先程より冷静に彼や彼らの姿を確認することができた。

 帽子の影でよく見えなかった青年の顔が、彼が自分より背の高い白ウサギを見上げたことで露わになる。柔らかな闇に浮かび上がるその顔は、思ったより若い。自分とさほど歳が変わらないのではないか、とは思った。
 短くカットされた艶やかな黒髪に、素直な形の黒い瞳。正義感の強そうな優等生に見える。彼の後ろには、彼より年齢が上だろう数人の兵士たち。若いリーダーに任せきりで存在感がまるで無い。彼らは皆揃いの詰襟上着を着て、ハートが描かれたゼッケンを身に着けている。ハートの数は人によって違い、はまるでトランプのようだと思った。

「君達“トランプ兵”の事情こそ、僕の知ったことじゃない。立場を弁えろ。僕の邪魔をするというなら、君達こそ不穏分子だ」
 白ウサギの言葉に、は一瞬自分の考えが読まれたのではないかと思った。……トランプ兵、とは彼らのことだろうか?

 この世界の事情を知らないには、白ウサギの言っている意味はよく分からなかったが、ただその言葉が強い力を発揮していることは感じ取れた。ハート一つの兵士……トランプならばハートのエースと呼ぼう……エースは表情こそ納得していなかったが、諦めたように一歩後ろに下がる。他の兵士達は従順に、白ウサギに道を空けた。
 は彼に腕を引かれながらその場を後にする。が、最後に一度だけ、振り返った。どうしても確認しておきたいことがあったのだ。

 ……銃声が聞こえた方向。森の茂み、木陰に隠されたそこには――兵士が一人、伏している。

 本当に今が夕方で良かったと、は心からそう思った。明るければ見えてしまうものが、闇に隠されて曖昧に包み込まれているから。


 それからのことはあまりよく覚えていない。どんな道を通って来ただとか、どのくらい歩いてきただとか、その間自分が何を言ったのか、もしかしたら何も言わなかったのかも、分からなかった。ただは白ウサギに腕を掴まれたまま、森の中を進んでいく。訊きたい事は山程あった。だからこそ何から訊けばいいのか選べない。それと、少しだけ逃げ出したかった。

 ぴたり。何もないところで、どこかに辿り着いたかのように、白ウサギの足が止まる。引っ張られているだけで進む気など全く無かったが、それに合わせて立ち止まる。今度はその背に鼻をぶつけることは無かった。
 白ウサギはの腕から手を離すと、自分より遥かに小さな少女を見下ろす。その目は兵士達に向けていた目より、もっと冷淡に感じられた。まるで物を見る一方通行の視線。彼は決して、兵士達から助けてくれたのではない。彼は彼の目的の為に行動しているだけなのだ。

「君、名前は」
「……です。七日町、
「それ、どっちが名前?」
「七日町が苗字で、が名前です」
 おかしなことを聞くのだな、とは思った。もしかすると不思議の国では英国のように、名前が先で苗字を後にしなければならないのだろうか。

「二つも名前があるなんて面倒だな」
 そう言われて「お好きな方をどうぞ」とは返す。彼が確認するように一度「」とその名を口にした時、は不思議な気持ちになった。耳慣れない呼び捨ては、自分の名前だと思えないくらい妙な響きに感じられたのだ。

 何とも言えない顔をしているに、白ウサギが何かを差し出す。近付いてきた手にびくりと過剰反応してしまったことを恥ずかしく思いながらも、は彼の手にある物を見た。それは銀色に光る金属の輪……手錠である。一瞬拘束されるのかと身構えたが、そうではないらしい。彼は強引に、の手にそれを押し付けた。

 は自分の手に移ったそれを観察する前に、まずは彼の両手を確認する。先程の大きな銃はどこにも見当たらなかった。まさか道中で捨てた訳でもないだろうし……どこへ消えてしまったのだろう?

「君にはこれから、しなくちゃいけないことがある」
 は“ようやくか”と思った。やっと本題という訳だ。彼が自分をこの世界に連れてきた理由が遂に分かるのである。しかし告げられたそれは、疑問をより深めるものでしかなかった。

「世界を終焉に導く“アリス”を捕えること。それが、君がこの国に来た理由。君の仕事だよ」
「……しゅうえん? アリスを、捕える……?」
 全く意味が分からない。彼は自分と同じ言語を話しているように聞こえるが、実のところ異世界の言葉は、意味するものが違うのではないだろうか。

(アリスを捕まえるって……なに?)
 はここでようやく、自分の手にある手錠をじっくりと見た。それは刑事ドラマで使われている無骨なものではなく、アンティーク調の細やかなあしらいが施されたアクセサリーめいたものだった。だが重みがあり、頑丈な作りをしている。

(これでアリスを捕えるってこと? 世界の終焉って何? なんで、わたしが?)
 大量の疑問符を浮かべるに、白ウサギは先を続けた。

「アリスはこの国のどこかに潜んでる。それを探して追いかけるのが、白ウサギの役目」
「ちょっと待って下さい。なんで白ウサギがアリスを追いかけるんですか。アリスが白ウサギを追いかけちゃうのが物語の冒頭でしょう」
「言ったはずだよ。状況が違うって」
 そういえばそんなことを言っていた気もする。その後すぐにマンホールに突き落とされたから、それどころではなかったけれど。(……いや、嘘だ。わたしが大して重要だと思わずに、聞き流してしまったんだ)

「白ウサギの役目ということは、わたしは、あなたのお手伝いをすればいいんですか?」
 あまりに理不尽な要求だが、には、それをこなして物語を終えない限り元の世界に帰ることはできない、というお約束の展開を容易に想像することができた。それが王道のストーリー。世の常というものだ。

 しかし首を横に振った白ウサギの次の言葉に、は呆気にとられるしかなかった。

「違うよ、僕じゃない。君が白ウサギになるんだ」
「え?」

 ……何を言っているんだこの人は。いや、このウサギは。わたしが白ウサギになる、だって? 意味が分からない。わたしは人間だし、彼のように長い耳は生えていないし、髪だってこの通りの色素の濃さ。これじゃあ百歩譲って黒ウサギだろう。そもそも“なる”ってなんだ。なるって――白ウサギになる? わたしはどちらかというとアリスの気分でここに来たのに。

「なんで?」
「ならなくちゃいけないからだよ。君だってなりたい筈だ」
(どういう理屈だ)
 そもそも、なりたいと思ってなれるものでもないだろう。

 幼い子供は将来の夢を聞かれると、ライオンになる! 猫になる! スーパーヒーローになる! と無謀なことを口走ったりもするが、の記憶が正しければ、過去の自分は精々ケーキ屋さんやお花屋さんくらいで、人間以外になりたいなどとは思ったことは一度も無かった。……魔法使いには、今でもなりたい。

「君は僕の替わりに白ウサギになって、アリスを捕まえる。役目を果たさないと君は帰れない。いいね、君が白ウサギだ。分かった?」
 そんなのいい訳ないじゃないか。と思いながらも、それを口に出来ない。彼の勝手な言葉には、嫌だとは言えない何かがある。

「……耳の短い、黒ウサギでも?」
「姿形にそれほど意味は無いよ。説明は、僕がするより適任が居る筈だから」
 まるで「じゃあ」とでも言うような声色には焦る。急にそんな意味の分からないことを言われて、右も左も分からない場所に置き去りにされて、たまるものか。この世界は危険すぎる。一人の時に先程みたいな目に遭っては、今度こそ生き延びられる気がしない。

「ちょっと待ってください、白ウサギさん!」
「僕はもう白ウサギじゃないよ」
「じゃあ、あの……あなたのお名前は?」
「なんで?」
「教えてくださいませんか」
「……ピーターだよ。別に、覚えておく必要は無いけど」
「……ピーターさん。この件ですけど、わたしが……もし、断ったら? もしくはこの場では了承したフリをして、逃げてしまったら? または期待通りにこなせなかったら?」

「君は嫌だとは言わないよ。言えない」

 はハッと息を呑んだ。彼――ピーターの目に危険な色を察知した時には既に遅く、どこからともなく姿を現わした非情で冷たい銃口が、に向けられていた。

 反射的に目を瞑る。
 ――そして、発砲音。今度は、花火大会を思い出している余裕は無かった。

 心臓がまるで耳の中に移動したみたいにうるさく響いている。口の中がカラカラだ。……二発目は、こない。
 は恐る恐る目を開けた。目の前に立つ男は、何事も無かったように平然とした顔をしている。そして颯爽と踵を返すと、今来た道を足早に戻っていった。その姿はすぐに見えなくなる。

 今のは何だったのだろう。
 引き受けなければ撃つ、という脅しだったのだろうか。

「なに、これ。とんだ夢物語だ」
 は嘲笑交じりに呟く。一人になると一気に体から力が抜けて、その場にずるずると崩れ落ちた。静かな森の暗い冷たさに晒されて、は改めて自分の置かれた現状を考えてみた。

 女の子なら誰だって一度は憧れる不思議の国。その魅惑にかどわかされ、やって来たのは、絵本に描くには物騒すぎる世界。踏み入れた瞬間に死の恐怖を味わい、命の終わりを間近で感じてしまった。
 綺麗な装丁の本に描かれていた面白おかしい理不尽さ、可愛らしい横暴さはここにはない。この世界にあるのは、ただの理不尽。ただの横暴。

『夢なんて見ては駄目よ』という紫の言葉が思い出される。どんな時でも隣に居てくれただろう絶対の味方は、この世界のどこにもいない。信じられるものは自分だけ。否、今はもう、自分すら信じられなくなっていた。道路に飛び出した時のように、またいつ早まった行動に出てしまうか分からない。

「どうすれば、いい?」
 こんな時に紫が居たら、どれだけ心強かっただろう。話し合って、一人より最適な答えが見つけられる筈だ。もし彼女が怯えているなら、きっと自分は彼女の手を引くことが出来るだけの勇気を取り戻せる。

 ああ、けれど
 ワンダーランドに君はいない。

 夢を嫌う現実主義な君だから、君だけは、絶対ここに居るはずがないのだ。……夢。夢というには、思い描いていたものとあまりに違い過ぎる。

(わたしがもう子供じゃないから、こんな夢しか見られないって事?) inserted by FC2 system