Act4.「in hole!go go go!」



ヒュルヒュルヒュル……。
深い、深い闇に落ちていく。落ち続ける。
最初はその感覚に独特の不快感を感じていたけれど、やがてそれに体が疲労を訴えて、麻痺し、慣れてしまった。隣を落ちている白ウサギは地上でのやり取り以降一切口を利かず、は沈黙に耐えながら、ただ黙々と落ちて行く。

突然突き落とされたことへの怒りは、めまぐるしく続く非現実的な出来事の衝撃で、すっかり忘れてしまっていた。疑問だけは溢れんばかりに膨れ上がっていたのだが、膨らみ過ぎたそれを吐き出すには彼女の口はあまりに小さい。
そのままなおも落ち続けていくと、暗い穴の奥に、ぼんやりと灯篭が光りはじめた。よく目を凝らせばそれはランプで、点々と壁にかけられていたそれは、奥に進むにつれて増えていき、少し経たない内に、の周りは灯りで埋め尽くされていた。

暗い穴の中がたくさんの灯りで照らされ、光で満ちる。
暖かなオレンジ色の光に溢れる世界。そして、そこに映し出されるものに、は感嘆の声を漏らした。

「わあ……!」

殺風景だと思い込んでいた穴の壁には、綺麗な額縁に囲われたたくさんの絵がかけられており、また、色とりどりのエンブレムがそこら中を彩っている。と、思えば次は壁一面が本棚の階層。、何なんだ、ここは……!

コツン!何かがの頭にぶつかって、小気味の良い音を立てた。咄嗟に手に掴むと、それは小さなヘアブラシだった。それも、いつもが制服のポケットに突っ込んでいるようなプラスチックの安物ではなく、誰もが一目で上等だと分かるような艶やかな毛製のブラシだ。コツン!今度は片方だけ履いたままの靴が音を立てる。ブラシの次は鏡。それもまた、高級そうな代物だ。
一体ここはどういった場所なのかと、は彼に問いかけるような視線を送る。しかし、彼はブラシや鏡のように一緒に落ちて行くティーカップを捕まえて、もう一方の手ではケーキの乗った皿を持ち、なんとも優雅なティータイムを過ごしているところだった。立ち上る湯気からは香ばしいコーヒーの香りが漂う。……ああ、コーヒータイムだったのか。コーヒーカップとティーカップの違いとは一体何なのだろうな。それにしても、よくこんな状況でくつろげるものだ。と、感心しながら、は何気なくその様子を観察し続ける。
コーヒーがカップから零れないのは何故かとか、そのケーキ、もしかすると皿に貼りついているんじゃないかとか、色々気になった。それに、冷静になればかなりゆっくり落ちている様な気がする。
……すると、の視線に気付いた白ウサギは近くの棚の引き出しを指し示す。開けてみろということだろうか?は素直に、その誘導に従う。開けてみると、中にはお菓子がぎゅうぎゅうに詰められていた。カラフルなアイシングクッキーに、マドレーヌ、ポップキャンディーに、ショートブレッド……。
(わたしの顔が、そんなに物欲しそうに見えたのだろうか)
お菓子はどれも可愛らしく魅力的な見た目をしていたが、は特に欲しいと思えず、そのまま引き出しをそっと閉じる。そんな彼女に、彼は特に気にした様子もない。

「有難うございます。……あの、この穴って、どこに続いてるんですか?」
はそのやりとりをきっかけにして、ようやく一つ、素朴な疑問を投げかけることに成功した。もくもくと頬張ったクリームをコーヒーで流し込み、白ウサギは億劫そうに口を開く。

「はあ。さっき言ったでしょ」
「えっ……じゃあまさか、本当に不思議の国?」
そうじゃないかとは思っていたが、まさか。まさか、本当に?
そして彼は、頷く。胸が、高鳴る。

「すごい。すごいすごい。すごくすごいですよそれって、すごくすごい!」
「そう連呼されると言葉の意味が分からなくなってくる。……ああ、凄い、ね、うん―――僕だって、行くまではあんな世界が本当にあるなんて半信半疑だったんだけど」

は彼の言葉に適当に頷きながらも、小さくすごいを繰り返していた。ただひたすらに、その言葉だけが頭の中を巡っている。だって、すごい!―――自分を取り巻く普遍的な世界がコロリと表情を変えて、それはまるで突然で、実感が湧かないまま体だけが事実として受け入れ順応していくこの状況!すごい!

不思議の国に向かっている。それを知ったは無意識に、手鏡に向かってブラシで髪を梳かしていた。そんなを、白ウサギは横目に見る。

「随分と、嬉しそうだね」
「……え?何か言いました?」
聞こえなかったです。と言うに、聞いてなかったんだろ、と心内ぼやきながらも、彼は首を横に振り、下から流れてきたポットを手に取って二杯目のコーヒーを注いだ。視界の端の少女は、またぼんやりとした夢見がちな表情で、鏡を見て髪を梳かしている。
嬉々とし、心躍らせ、そわそわと身なりを整えている少女は、まるでこれから舞踏会にでも行くようにしか見えない。恋する乙女のようであり、あどけない幼子のようでもある、その表情。

―――これから、自分が何に巻き込まれるのかも知らずに。


(別に、どうでもいいんだけどね)


ヘアブラシも手鏡もコーヒーカップも、皆手から離れて、上へ上へと片付けられてしまった。壁も寂しくなってきた頃、足元に何かが見えてくる。今度は何かと目を凝らしたの瞳に映るのは、執着地点。

「あれって、底ですか?」

の問いかけに白ウサギは適当な声で、ああ、とかうん、とかそれに近い返事をする。は少し大袈裟に、胸を撫で下ろして見せた。

「安心しました。そろそろ、もしかしたらこの穴には底が無いのかもって、本気で考え始めていましたから」
だから、その先にある不思議の国なんてものにも、永遠に辿り着けない。よって“存在しないもの”なのだと、そういう結末なのかと、は不安に思っていたのだ。しかし白ウサギは言う。

「底の無いものなんて、どこにも存在しないよ」
「底を知らなければ底が無い、けれど底が無いということもまた誰も知ることが出来ない。そういうことですか?」
白ウサギは何も答えなかった。もその話について先刻会ったばかりの人と話し合いたいとまでは思わず、口を閉じた。



地面が近付く。普通なら骨が折れるどころではないのだろうが、大丈夫だ、という根拠の無い確信がの中にはあった。いや、根拠ならここに来るまでに得ていた。
は、通常スカイダイビングのように高いところから落ちれば、人の顔が風圧によって大きく膨れ上がるということを知っていた。のにも関わらず、今はスカイダイビングなど問題にならないくらいの長さを落ちているのに、多少髪が弄ばれて胃がぐるぐるして頭がぐらぐらするだけ。ああ、常識など通用しない。ここは、今までの世界とは違うのだ。それが、唯一にして最大の根拠である。

そしてその理論は、頭の中での証明を待たず、強制的に実証される。
恐らく一番衝撃の少ない安定した部分は臀部だろうと、尻餅を付く準備は出来ていた。が、落ちた先が崖のように傾斜になっていることなど、誰が予想できただろうか。いや、間違いなく白ウサギは知っていた。無様にごろごろと転げ落ち、もうどこがどのように痛いのか分からなくなって、ようやくどこかに投げ出されて体の回転が止まり、全身が満遍なくとても痛いのだと分かった。その隣に慣れた様子で崖を滑り着地した無傷の男を、は睨んだ。けれど睨むという動作すら一苦労で、諦めてそのまま仰向けになって天上を仰げば、黒々と茂る木々の間から、星が、見えた。

ほんのり桃色の交じる、淡い紺色の空。夜の訪れが魅せる光の悪戯。一見今まで居た世界となんら変わりないというのに、やはりどこか空気が違うような気がする。ここは間違いなく、にとって異世界だった。

こっちも夜なんだね、と声に出さず呟いたが、まだ“この世界の夜”を知る由もない。は、草の匂いをいっぱいに吸い込んで、吐き出す。ここはどこなのだろう、上体を起こしただったが―――、

立ち上がることは、許されなかった。 inserted by FC2 system