Act20.「女王と騎士(前)」



 彼女は生まれながらにして女王だった。
 それは単に彼女に割り当てられた役、“アリスネーム”がそうであったというだけでは無い。何人にも冒されない気高さと有無を言わさぬ威厳、確固たる正義を兼ね備え、戦いを恐れぬ果敢さと優れた剣技を持つ彼女は、存在しているだけで人々を惹きつけ魅せる。君主たるべき女性だった。

 ジャックが彼女と初めて出会ったのは遥か昔のことだったが、その時の事は鮮烈に思い出せる。事実よりも、色鮮やかに。過ぎ去りし過去は時間と共に美化され、永遠に美しくなり続けるのだ。ジャックの世界に彼女が現れたあの日、その瞬間。ジャックは自分が本当の意味でこの世に生を受けたのだと感じた。

 あれはまだジャックが、この世界に“ハートのジャック”として生を受けるも、生きる意義を見つけられずに居た頃のこと。アリスネームの持つ強大な力を持て余し、それに怯え、しかし縋りながら、戦乱の世で傭兵として生きていた。何の為に剣を振るうのか、生きるのか、その答えを探し続けていた時に現れたのが彼女だった。

 当時の不思議の国には多数の勢力が乱立しており、争いが絶えなかった。その争いの一つで、ジャックの軍を打ち破った敵軍の首領が彼女である。ジャックが戦いで直接誰かに負かされたのはそれが初めてだった。それも相手は筋骨隆々のいかにも屈強そうな男ではなく、自分より一回りも二回りも小さく細い女だったのだから、にわかには信じ難かった。ジャックはそれまでの自分の全てを否定されたように感じた。

 ――騎馬の上に悠々と構えるその人物は、一見少年と見紛う少女。
 短く刈り上げた髪は、輝く小麦畑の一番眩しいところを集めて束にしたような金色で、色素の薄い肌は冷たい光を帯びている。鋭く吊り上がる薄水色の目。スッと通った鼻筋、細く尖った顎。造形は美しいものの、触れたら怪我をしそうな鋭さが、見る者に愛らしさを感じる隙を与えない。氷柱のような少女だ、とジャックは思った。

 敗北を受け入れられないでいるジャックに、彼女は眉一つ動かさずその薄い唇を開く。彼女の言葉は身が締まるような凛とした響きと、穢れを知らない清らかな音色で奏でられた。

「恥じる必要はないのです。私に負けるのは、光栄なことですよ」
 彼女はこともなげにそう言った。自分の勝利が当然だと、疑ったこともない顔で。
 彼女が発する圧倒的な存在感。ジャックは彼女が自分と同じく特別な名前を持つ者なのだと、本能で理解した。それは彼女も同じだったらしい。

「あなたは――ああ、ハートのジャックですね。腕が立つ剣士だと、噂には聞いていました。……不思議な感覚です。キャラクター同士が出会うと、こうも分かるものなのですね」
 それから彼女は、また当然だという口ぶりで、言う。

「ハートのジャックは女王に仕えるもの。それがこの世界の理でしたね。あなた、私の騎士になりなさい」

 その日からジャックは彼女――ハートの女王ロザリアの騎士となった。それはこの世界がまだ幾らかは『不思議の国のアリス』の物語に忠実であった頃の、運命であり必然である。



 *



 清廉潔白で美しく強い女王。ロザリアは誠心誠意仕えるに相応しい存在で、いつしかジャックの生きる意義になっていった。

『ジャック。私は人の上に立ち、国を作らなければなりません。力ある私には人々の正義である義務があるのです』

 彼女は度々“正義”という言葉を口にした。それは客観的な善悪を無視した、彼女が追い求める独善的な理想だった。何にも左右されない確固たる意志は傲慢でもあったが、ジャックにとっては何よりも、自分自身よりも信頼の置けるものだった。ジャックは彼女の正義を信じ、彼女に付き従うことで、迷いや不安から解放され心が満たされるのを感じていた。

 ロザリアは才能にも運にも恵まれていたのだろう。彼女はまるで白地図を塗っていくように、みるみる自勢力を拡大していった。逆らう者には鉄槌を、従う者には守護を。ロザリアの一貫した姿勢に、多くの者が心を折られるか掴まれるかして、彼女のもとに下って行った。

 そうして争いの絶えなかった時代は徐々に終息し――乱立していた小さな勢力は、大きく四つに分かたれた。王が治める国と、女王が治める国、アリスを神と讃える教国と、そのいずれでもない中立国である。四つは互いに牽制し合い、絶妙なバランスを保ち、幾らか平和な時代が訪れた。

 平和になるとロザリアは城に腰を据え、国づくりに注力し始める。彼女はまず数千もの法律を定め、無法地帯にルールを敷いた。それから法を犯した者への罰則を設け、人々に権利と義務を強いた。国民は初めは戸惑っていたものの、すぐに彼女に従うことに希望を見出し始める。ロザリアは独裁者だったが、人々にとって正義の独裁者だったのだ。

 ロザリアが玉座に落ち着いてから、ジャックも彼女と共に城で公務にあたることが増えた。命のやり取りの無い平和な城内は彼にとってぬるま湯で、ロザリアと戦場を駆け回っていた戦いの時代を恋しく思うことも少なくなかったが、彼女にとっては戦場が変わっただけのようだった。ロザリアは常に戦士の顔で理想を追い求め、ゆくゆくは四つの勢力をただ一つへ統一しようとしていたのである。

 ロザリアは、君主たるに相応しい者は自分以外に居ないと信じていた。完璧な国を作ることが自分の存在意義で、義務であると信じていた。ジャックはそんな彼女こそ、胡乱な存在のアリスよりよほどこの世界の神だと、混沌の世の救世主だと崇拝していた。自らが崇拝する者から必要とされ、その力になることができる。共に理想を実現できる。それはこの上なく幸福なことだった。

 不思議の国の時間は、規則的ではない。いつまでも続き、いつ終わってしまうかも分からない、一瞬のような永遠の時間だ。ジャックはかつて煩わしく感じていたその永い時が、彼女と出会ってからは少しでも続けば良いと願っていた。

 しかし煩わしい時間は永いように、幸せな時間は一瞬で終わるものである。ジャックの幸福な永遠は、一瞬だった。



 *



 不思議の国に稀に現れる“異世界人”の存在を、ジャックも知っていた。ロールネームを持たずに現れる迷い人は、世界に適合できず、迷い込んで間もなく消滅することが多い、幻みたいな存在だ。
 極稀に適性があり、そのまま人々に紛れて生活を送る者も居たが、やはり何かしら不具合が生じるのだろう。寿命にしては短すぎる生涯で、最期は不自然で悲惨な死を迎えるのだという。

 どちらにしても悪戯な通り雨だ。アレもその一人だと思っていた。

 ある雨の日に、城の庭で発見された異世界人。異世界との繋がりはいつどこに出現するか分からない突発的なものだったが、そんな事情を知らない衛兵には堅牢な警護をかい潜って来た間者にしか見えなかったようで、その異世界人はすぐに捕らえられた。ずぶ濡れになった頼りない姿が女王の前に突き出されたあの日は、忘れたくても忘れられない。あれが夢の終わりで、悪夢の始まりだった。

「お前が別の世界から来たというのは本当ですか?」
 何もない所から出現したこと。尋問の末に聞き出した男の情報を照らし合わせると、どうやら異世界人であるらしい。初めて目にする異世界人に興味深げに問いかけるロザリア。濡れねずみが、僅かに顔を上げる。異世界人は男だった。

 雨に濡れて束になった黒髪。滴る雫が乗ってしまいそうな分厚いまつ毛。長い前髪から覗く大きな目と、寒さに震える小さな唇は、どこか小動物を彷彿とさせた。中性的な顔立ちと骨ばった細い体躯。それだけならば庇護欲を掻き立てられそうな要素ではあったが、男の纏うじっとりとした暗い雰囲気が、彼を得体の知れない不気味な存在にしている。骨ばった耳の無数のピアスが痛々しかった。

 顔を上げたものの、ロザリアを睨むだけで言葉を発しないその男を、衛兵が小突く。「言葉が通じないのですか?」とロザリアが言うと、男は渋々といった様子で口を開いた。それは、悪態じみた気に障る喋り方だった。

「くそ。何だよ偉そうに。あんた、何様だよ」
「この国の女王ですよ。私はハートの女王、ロザリアです」
「……へぇ、女王サマ! 笑えるなあ。ここでは男でも女王になれるのか? ちんちくりん君」

 男の言葉にその場がしんと静まり返った。男以外の全員が、彼の言葉を理解できずにポカンとしている。今まで誰も、ロザリアにそんな言葉をぶつけたことはないのだ。汚い言葉とは無縁の、高尚な存在なのだ。

 ようやく我に返った衛兵が、憎たらしい男の顔を「不敬者!」と殴る。ジャックは平静を装いながら、もっと痛めつけてやれ、と思っていた。その異世界人とて、本気で彼女を男だと勘違いしている訳でもないだろうが、だからこそ余計に質が悪い。

 ロザリアは子供みたいに背が低く、髪も少年のように短く刈り上げており、自らを飾り立てることに無頓着ではあるが、素材がいい。ちゃんと着飾ればどんなに美しい薔薇の花だって逃げ出すに違いない、とジャックは男に言ってやりたかった。おそらく衛兵達も同じ気持ちだっただろう。しかし残念なことに、ロザリアはすぐに彼らを制止する。

「残念ながら私は女ですよ。私が男であったなら、王と名乗っていたでしょうね」
 顔色一つ変えないロザリアに、男は「可愛げのない女」とつばを吐いた。ロザリアは、淡々とした口調のまま言い返す。

「可愛らしさなどというものは、格下の相手に抱く感情でしょう。私には不要です。私は、いついかなる時も人の上に立ち導く、女王なのですから」
「あー……可愛げがないんじゃないな。あんた人間味がないんだ。可哀想に」
 男は心にも思っていない様子で憐みの言葉を口にする。衛兵は女王の顔色を窺うが、彼女は今度は止めなかった。制裁を受け、男が呻きを上げる。呻きだけでなく、聞いているだけで吐き気がする口汚い言葉をその場にまき散らしていた。

 ロザリアは暫くの間黙ってそれを見つめていたが、男が疲れで言葉を途切れさせた時、ようやく口を開く。

「どうやら中々に厄介な男のようですね。野放しにしておくのは危険かもしれません」
 ロザリアはいつも、高い声を無理に押さえつけて話していた。人より小さく華奢な女であることで、侮られたくなかったのだろう。しかしその時は、珍しく少し声の調子が上がっていた。
 ジャックは思わず、玉座に座る彼女の横顔を盗み見る。常に険しく厳かなその表情は、僅かに血色が良く見えた。 inserted by FC2 system