Act2.「望んではならないもの」



「何、ボーっとしてるの?」
号令の時座ったままだったでしょ?紫がくすりと笑う。切り揃えられた長い髪が、彼女の動作に合わせて揺れた。
気付けば教師の姿は消えていて、解き放たれた空間は、放課後の生徒達のざわめきで満たされている。いつ授業が終わったのだろうか。まるで目を開けたまま眠っていたようだ、とは自身に呆れの笑みを零す。

「なんかね、アンニュイなのだよ。アンニュイ。ねえ、アンニュイってさ、」
「別に可愛くもなんともないわよ」
「なんともニュイわよ?」
「はいはいニュイニュイ。それより帰りましょ。今日、帰りのショートホームルーム、無いんですって」
ああ、道理で生徒がまばらだと思ったら。はのろのろと立ち上がる。

「ねえ、今日はバイト、無いんでしょう?どこかに寄り道していかない?」
紫の提案を受けて、は短く思案する。彼女との寄り道は好きだ。カラオケに、ショッピング……。しかし、いつもならば魅力的に感じるその提案に、今日はあまり乗る気にはなれなかった。そこで、「喉が渇いたから何か飲んで帰ろう」と返す。紫はの返答に、彼女が遊びに積極的な気分ではないことを察したようだった。

「いいわね。は何が飲みたいの?」
そうして連れ立って教室を出るとき、入り口付近で溜まっていたクラスメイトの女の子達とは一言二言交わして、最後にはまた明日と小さく手を振り合う。人が人の社会で生きていく上で、馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返すこと、それ自体に意味がある行為だ。ちら、と隣の紫を伺うと、いつものことながらその顔に表情は無く、その瞳には彼女らを映してもいない。中でも愛想の良い一人が紫にも声をかけると、紫はようやく彼女らの存在に気が付いたかのような素振りで振り返り、「ええ、さようなら」と小さく会釈して、しかしまたすぐに前を向いて歩き出してしまう。クラスメイト達は、そんな彼女の様子に顔を見合わせて苦笑していた。

紫は、極度の人見知りだ。と、いうよりは他人への興味が極端に薄いというのだろうか。自分から人と交流をはかろうとすることは一切無く、話しかけられれば差し障りのない程度に返事はするものの、その返事でさりげなく会話に終止符を打つものだから、会話が続かない。それに加えて、少年的な凛とした響きのある声と、流れるような涼やかな瞳が、周囲に冷ややかな印象を与えている。現時点で一体どれくらいの人が彼女をそのように誤解しているのだろうと、は彼女に追いついて、会釈の名残の残る横顔を見つめた。けれど、すぐに視線に気付いた紫がこちらを向いてしまったために、長くは見ていることが出来なかった。

「ねえねえ、駅前の新しい喫茶店、あそこにしましょうか。それともやっぱりいつものところにする?」

本当に楽しそうに、彼女はわたしに笑いかける。

友人ら曰く、は桃澤紫という少女に関して、例外的な存在であるらしい。思えばにとって、紫はどこまでも優しい親友だった。そんな彼女がほとんどの人に誤解されたまま一線を引かれ、また引き続けるのは親友としてはやはり悲しい。

……なんて嘆いている程、はできた人間ではなかった。

わたしは、桃澤紫という人間が本当は誰よりも人間らしく、情に深く、苦いものや辛いものが苦手で、小動物が大好きだということを知っていて、そんな彼女を知っているのは自分だけでいいと思っているのだ。
それはとても単純で幼稚な独占欲で、そんなわたしに薄々気付いていながらも拒まない紫が優しすぎるからいけない。なんて言い訳をしながら、わたしはいつだって、彼女がわたしだけの親友でいてくれるように祈っているのだ。彼女が、私だけのものであればいいと。

自分が誰かの唯一無二の存在になれるということは、わたしの人格を容易に歪めてしまう程、素敵なことだ。……と、胸の内を明かしたところで紫は「あなたが嬉しいなら私も嬉しいわ」などと言ってくれるのだろうけど。
ああ、やっぱり彼女がいけない。

「わたしのオススメはいつものところ。新しいとこ、結構お財布に厳しいかも」
「そうね。可愛いお店だけど、学生にはちょっと優しさが足りないわ」
紫が眉尻を下げて肩を竦めてみせる。はそれに何か冗談で応える自分をどこか他人のように遠くで見ていた。

帰り道にあるカフェで、は飲み慣れたアイスコーヒーを、紫は期間限定のチーズケーキフラペチーノを購入する。いつも決まってコーヒーを頼むに、紫は呆れたような、感心したような溜息を交えて言った。

「変わり映えしないわね」
「そんなことないよ。冬はホットになるし。紫は期間限定に弱いよね」
「だって、チーズケーキよ、チーズケーキ!絶対美味しいじゃない」
飲物なのに、ケーキ。は、想像しただけで胸焼けがしそうだった。しかし紫に言わせれば、ミルクも砂糖も入れないコーヒーを好んで飲むが信じられないらしい。食べ物や飲み物、服装の好み、趣味や生活スタイルなどにおいて、二人の共通点はそれほど無かった。にも関わらず、長年一番近い距離の友人として付き合っているのは、根本的な「気」が合うからなのだろうと、は思う。互いをよく知り、分かっている。
だから、些細な変化でも気づかれてしまうのだ。

「さっきから、ずっと変よ」
「……え?何が?」
はとぼけたふりをするが、紫の指摘が何に対してのものか、自覚はあった。
彼女が言う“変”とは、わたし自身のことだ。実は、居眠りから目覚めてからというものずっと、どうにも世界が遠くに感じてしまっている。寝ぼけている状態から抜け出せていないのだ。

が、よ。なんだかずっと上の空で、ボーっとしちゃって。アンニュイにも程があるわ」
そんなことニュイよ。と、ははぐらかすように片手をひらひらと舞わせた。ズズッと、ストローが音を立てる。氷に引っかかったストローをガシャガシャと弄るの前に、隣を歩いていた紫が立ち塞がった。そして、の顔を覗き込むようにして言う。

「さては、また変なことでも考えてるんでしょう」
一瞬、その瞳に影が差したような気がしたのは、ただの気の所為ではないということをは知っている。

「例えばそうね……教室の天井と床がひっくり返って逆さまになっちゃったら、電灯が邪魔で椅子が置けないんじゃないか、なんて心配したりしてるんじゃない?」
「……はは。そんなことになったら、電灯は床に取り付けることになるんだから、大丈夫でしょ?」
これは、いつかのと紫の会話の再現だ。ふと思いついた仮想の世界を口にしたに、きっぱり鮮やかに否定する紫。今は互いにその時の役を取り替えるようにして話していた。

紫はの返事に満足したように幾度か頷く。は、安堵した。紫がに対して唯一否定的になる時。それが、が実際にはありえないような想像の世界や夢物語を語る時だった。にとってそれらはとても魅力的で、とても楽しいものであるのに、どうやら紫にとっては嫌悪の対象であるらしく、が少しでもそのようなことを口にすれば、人が変わってしまったかのように頑なに、それらを否定するのだ。理不尽なまでに、が彼女の否定に同意するまで、許さない。

はそんな紫の一面に対して、きっと育ってきた環境に原因があるのだと思っている。詳しいことは紫が、聞けばいい気分にさせないからと言うので聞いていない。だが、どうやら紫の家はとても帰りたくなるような家庭環境ではないのだそうだ。高校三年の現在、両親が共に健在しているにも関わらず、彼女は小さなアパートで一人暮らしをしている。

ああ、きっと彼女の視てきた世界には夢物語を描くだけの色が足りなかったんだろう。だからこそ、触れることの出来ない宝石を愛でるということを知らないまま、近道をして大人になってしまったのだろう。と、は勝手に解釈するようにしていた。
思えば幼い頃、みんなが浮き足立つクリスマスに、一人だけ暗い顔をしてサンタクロースの絵を真っ黒に塗りつぶしていた子が居た。その子の家には毎年クリスマスなど来ないのだという。それぞれの家庭にそれぞれの事情があるのは当然で仕方のない事だ。ただ、子供にキラキラしたものに憧れを抱くなというのも、無理な話だ。届かない憧れは、嫌悪にすり替えられてしまうものなのだろうか。

「じゃあ、変な夢でも見たのね。が変なのは居眠りから目覚めてからだもの」
あれ、おかしいな。苦いものは嫌いではないが、飲み慣れたコーヒーが、いつもより苦く感じる。それに少し肌寒く感じるのは、秋の訪れが近いからだろうか。紫の鋭い視線から逃げるように、は視線を逸らす。その頭を、身長のあまり変わらない紫がふわりと撫でた。

「もう、夢なんて見ては駄目よ。惑わされても、駄目」
睡眠時の夢なんて自分の意思で見る見ないを決められるものじゃないと、そんなことはとても言えなかった。こういうときの紫は少しだけ、怖い。は紫が好きだったが、それでもこういうときばかりは好意よりも嫌悪に似た恐怖が勝る。恐怖に依存。二人の関係は、完全な友情だけでは成り立たない。

が仕方なく首を縦に振れば、ようやく紫はいつもの柔らかい笑みを取り戻す。彼女の手はするりと下りて、頬を撫でた。

「大丈夫。あなたが心配することなんて、何もないわ」
それは、まるで小さな子供に言い聞かせているかのようだった。
はあまりに優しいその表情に、思わず見惚れる。

(惑わしてくれるだけの夢があるなら、良いんだけど。かくもこの世は、彼女の望み通り退屈だ)



―――そして、彼女との帰路に平和が戻る。

空のコーヒーカップを処分して身軽になったは、道路と歩道の間の平均台に乗って、少しだけ近づいた空を眺めた。薄い藍色の空には、罅の様に電線が走っている。教室の窓枠に飾られた空の方が、綺麗だと思った。綺麗な部分を切り抜いた、絵本の絵みたいで。

、危ないわよ。歩車道境界ブロックなんかに乗って」
「え、なに、もう一回言って」
「歩車道境界ブロック」
「これ、そういう名前だったんだ……」
平均台の方が分かり易いのに。と、は心の内でぼやく。
もうすっかり落ち着いた様子の紫も、に倣って空を見上げた。

「もうすっかり、日が落ちるのが早くなってきたわね」
「そうだね」
「……ねえ、
紫が、静かにの名を呼ぶ。紫は何気なさを装っているが、どこか弱弱しいその様子に、は黙って次の言葉を待つ。

「本当に、……大学に行かないの?」
「もう決めたことだよ。就職先も決まったし」
卒業が近付くにつれて自然とその話題は、二人の間にも頻繁に上がるようになった。
紫は去年までも進学をするものだと思っていたため、初めてそれに気が付いた時には驚いた。本人の口からは何の説明もなく、ただ進路説明会の会場が違ったのだ。同じところに進学するものだと思い込んでいた紫には、それは衝撃的だった。

「去年まではずっと、学生の方が楽しそうだって言ってたじゃない。どうして?」
「特別学びたいことっていうのもないしね。紫は短大行くんだっけ?」
「ええ」
「音楽を学んでみても良いと思うんだけどなあ。紫、絶対ピアノの才能あるのに」
「嫌よ。ちゃんと学んだものではないもの」
紫はに話をはぐらかされたことを不満に思っているようだったが、それ以上は追及してこなかった。は少しだけ悪いと思いつつも、安堵した。

「じゃあ、またね」
二人の分かれ道。お互い名残惜しそうに立ち止まって話をしてから「バイバイ」と手を振り、時折振り返りながら、その行動にまた笑って、また前を向いて、それを繰り返し、別々の道を歩いていく。

紫の風に靡く艶やかな黒髪が見えなくなった頃、は小さく溜息を吐いた。一人になると突然、頬の筋肉の疲労を思い知らされる。紫に追及されないよう、ぼやける意識をごまかすように、意識的に笑っていたような気がする。
そう考えている間にも、はまた、自分の意識が遠くに漂うのを感じ始めていた。
学校に居た時よりは足が地に付いている感じはするものの、まだ心身の感覚がぼやけている。疲れているのだろうか。風邪かもしれない。帰ったらすぐに眠ろう。そう思うのに、帰ることさえ面倒で足を止めてしまう。
全身に巡る怠惰感。自分が消えていく。……そんな、夢を見たような気が、する。

立ち止まるを取り巻くように、視界の端では見慣れた夕暮れの景色がぼんやりと流れていった。
車のライトの黄色、街灯の白、路地裏の赤、色とりどりのネオン……。



路地裏の、赤?

は足を止めてそこに目を戻す。それは道路の向こう、居酒屋とマンションに挟まれた狭い路地。その更に向こうにちらつく赤を、今度ははっきりと目に留める。それは何かの、誰かの目だった。暗くて全貌はぼやけているが、その真っ赤な双眸だけは闇に隠されることなく浮かび上がっていて、間違いなくを射ていた。

ふっ、とその瞳が見えなくなって、持ち主がに背を向けたのだと知った。ぼんやり見えていた背中も、路地の奥へ吸い込まれるようにして消えていく。

「あっ、ま、ちょっと、待って!!」
はそんな風に慌てて声を荒げる自分が恥ずかしくて、不可解でしょうがなかった。ただ本能だけが先走り、嘲笑を浮かべる冷静な自分を押し負かしてしまっている。ぼやぼやと遠ざかっていた世界が急激に鮮明さを取り戻す。色が、溢れる。ああ、ああ、世界が、世界が帰って来た。

世界が一気に押し寄せてきた!!


赤い瞳はもうを見ない。追いかけなければ、追いかけなければ、追いかけなければ!!は気付けば、車の行きかう道路へと身を投じていたのだった。


無謀な自分を弁明できるだけの理由は無い。
ただ、何か楽しいことが起こるような、物語が始まるような予感がしたのだから仕方がない! inserted by FC2 system