Act19.「悪夢のあとで」



『こんなにきれいなバラ、みたことない』
『あなたのためのバラだもの。いちばんきれいなはずだわ』
『あおいバラなんて、はじめてみた』
『よかった。あのね、あおいバラって、むかしはナイモノだったんだって。でもできちゃったの。おとなってよくばりよね。ナイモノをみんなうばっちゃう。ナイモノのまま、あなたにあげたかったのに』

『でも、ぼくのためのバラはこれだけだよ。ほかにはどこにもない。ずっとハジメテでトクベツなんだ』
『……ふふ。あなた、ようやくわらってくれた』
『あ……しんぱいしてくれて……ごめんね』
『なあに、そのいいかた、おかしいの。そこはね、ありがとうっていうのよ』

『……あり、がとう』
『どういたしまして』

『ねえねえ、あなたが、もしまたかなしくなったなら、このバラをみにくるといいわよ。わたし、おまじないしたもの』
『おまじない?』
『そうよ。あなたのかなしみを、このバラがぜーんぶすいとってくれますようにって』

 だからもう ひとりでなんて なかないで



 *



 おかしな夢を見た。夢の中で夢を見ているみたいな夢。舞台上に自分はおらず、スクリーンの向こうの誰かを見ているような、客観的な視点の夢。映画の主人公は幼い少年少女で、黄金に輝く昼下がり、二人だけの花園で遊んでいた。

 はゆっくり浮上する意識の中、ぼんやりと天井らしきものを認める。

(ここはどこ? わたしは、どうしてここにいるの?)
 マンホールに落ちて、不思議の国に来て……なんてことは一々思い出さなくても分かっていた。分からないのはあの夜のこと。青バラに追いかけられた、悪夢の一晩のことだった。青バラが消え、地下水路の天井が崩れて、そこから先の記憶が無い。どうやらどこかの部屋のベッドで寝ているみたいだが……。

 とにかく周囲を確認しようと、首だけ動かして室内を見回す。すると、すぐ近くに人の姿がある事に気付き、心臓が跳ねた。そこに居たのは常盤だった。ベッドの横にある椅子に腰掛けて、腕を組みながら……眠っているのだろうか。固く目を閉じた気難しそうな寝顔は、彼らしく思えた。静かな呼吸が聞こえる。ずっと付き添っていてくれたのかもしれない。だとしたら、ずっと寝顔を見られていたということになる……。

 は感謝よりも恥ずかしさが勝り、ひどい! と文句を言いたい気持ちになった。それからできるだけ音を立てないように、布団を深く被って息を潜める。寝顔を見られた上、寝起きの顔まで見られたら堪ったものではない。

(……あれからどうなったんだろう?)
 布団の中で少し落ち着いて、もう一度目だけ出して部屋を見てみた。この部屋には見覚えがある。ジャックが用意してくれた客室だ。自分はまだ彼の館にいるらしい。が、彼本人はどうしたのだろう。

 ――わたしを殺そうとし、最後には落石から庇ってくれたジャック。打ちどころが悪かったりしていないだろうか。青バラにもかなり苦しめられていたようだが、無事なのだろうか。……そんなことは、自分を殺そうとした相手に思うことではないかもしれないけれど。

 まずは自分の心配をしてあげよう、とは布団の中で体をさする。が、どこにも傷が見当たらない。痛みもない。驚いて起き上がり、布団を剥いで自分の腕や脚を見るが、そこにあった無数の傷は殆ど無くなっていた。傷が完治するほど寝ていたとは思えない。どういうことだろう? ただ外傷は無くとも、体の中から何かが失われたみたいな脱力感があった。グルグルと眩暈もする。貧血だろうか?

「……?」
 もう大分聞き慣れた声が、の名前を呼んだ。目覚めたばかりの常盤が、眩しそうに目を細めてを見ている。は物音を立て過ぎたか、と後悔した。

「あ、おはようございます……」
 は起き上がってしまった以上、もう布団の中に隠れることは出来ないと思い、観念する。常盤はをじっと見つめたまま何も言わなかった。しかしその目には、言葉以上の何かが溢れている。は穴が開きそうになりながら、黙ったままの彼が心配になり「あの」と声を掛けた。ベッドの淵に手をかけ、体の方向を変えようとする。が、上手く力の入らない腕はカクンと折れた。は笑って恥ずかしさを誤魔化す。

 常盤が椅子から立ち上がり、ベッドの傍に寄った。は、起き上がるのを手伝ってくれるのかと思い「大丈夫です」と言って、もう一度しっかり体を起こす。しかしそれも安心して見ていられるものではなかったのかもしれない。の体を、常盤がそっと、捕まえるように支えた。
 ……まるで抱きしめられているみたいな体勢にはヒヤヒヤするが、それが本当に抱きしめられているのだと気付くのに、そう時間は要らなかった。

(ななな、何!?)
 は頭が真っ白になる、を言葉通り体感した。思考がポーンとなり、心がギュっとなる。驚いた。それはもう驚いた。ただ、少しも嫌だとは思わなかった。心地よい体温、落ち着く匂い。彼は細身に見えたが、抱きしめられると安定感があり、自分など簡単に包み込まれてしまった。

 は戸惑い、そっと常盤の名を呼ぶ。彼は小さな声で返事をした。その声は掠れ、僅かに震えている。は自分より年上で体も大きな大人の男に放って置けなさを感じてしまった。あやすみたいに、できるだけ優しく声をかける。

「どうかしましたか?」
「……怖かったんだ」
「なにが、怖かったんですか?」
「君が居なくなってしまうことが、怖かった」
 より強い力で、抱えこむように抱きしめられる。……はようやく思考が追い付いてきて、この状況を客観視し、顔が熱くなった。汗ばむほどだ。冷静になろう、冷静になろうと自分に言い聞かせる。深呼吸、深呼吸。

(なんでこの人はこんなに、わたしを大切にしてくれるんだろう)
 出会った時からそうだった。きっと、一目惚れなどという単純な話ではない。男女間のありふれた感情に繋げるのも安直すぎる。もっと深く複雑な何かがあるのだ。最初は彼の自分に対するそれに警戒していたものの……右も左も分からないこの世界で、命を狙われる経験をした後には、この優しさがとても沁みる。は自分の中に穏やかな気持ちが広がるのを感じて、彼の背にそっと手を回し――

 その時だった。コンコンというノックの音とほぼ同時に、ガチャリとドアを開けてウサギ男が入ってきたのは。

 何か言いかけながら部屋に一歩踏み入れた彼は、中の状況を見るなり一言「お邪魔しました」と言って、開けたばかりのドアを閉め後ろ向きに出ていく。

「……、」
 何とも言えない気まずさだ。と常盤は、ピーターが開けて即座に閉めていったドアを、呆然と見つめる。

(ノックしたんだったら返事ぐらい待っててよ! ああ、もう!)



 *



 ピーターが行ってしまってから、暫く耐え難い空気が流れた。は気恥ずかしく常盤の顔をまともに見れなかったが、常盤の方はぎこちなくも平静を装っている。
 常盤はが寝ていた間のことを簡単に説明すると「まだ顔色が悪いな。今はひとまず、安静にしていなさい」と言い、そそくさと部屋を出て行ってしまった。ピーターが常盤に用事があって訪ねてきたのだとしたら、それを追っていったのかもしれない。

 は一人になって正直ホッとした。ベッドから降りてカーテンを開けると、外は夕空。自分はあれから丸一日、眠っていたのだという。

 昨日の夕方に青バラが消えてから、常盤とピーターが達を館に連れ帰った。館の使用人はジャックが起こした事を何も知らず、混乱を招かないためにも一旦は事故と伝えているらしい。彼らは気を失った主と客人の看病に、最善を尽くしてくれたとのことだ。
 傷一つ残っていないことに関しては彼らの治療が優れていたのではなく、青バラの本体が消滅したことでその痕跡も消えたということらしい。光を浴びると消えてしまうそれはまさに幽霊、一夜の悪夢。しかし奪われた体力や気力は戻っていない。いくら綺麗に消えたように見えても、あの怪物は確かに存在していたのである。

 ジャックはどうなったのか。彼と青バラの関係は何だったのか。はそれが一番気になったが、ジャックの名前を口にした途端、常盤は「君が気にすることじゃない」と一刀両断。何も教えてもらうことはできなかった。

(ジャックはもう、目を覚ましてるのかな?)
 何故だかとても彼と話がしたかった。モヤモヤを晴らして、彼との関係に終着点を見つけてしまいたかった。敵なのか味方なのか。理解できるか、理解すべきものなどないのか。何故最後に自分を庇ったのか。

 しかし常盤やピーターに言っても、会わせてもらえるかどうかは分からない。もう彼と話す機会は無いかもしれない。……ただ、一人で会いに行くのは気が引けた。また同じことの繰り返しになったら笑えない。

「ううん」とは小さく唸る。一旦諦めようとベッドの中に戻り目を閉じてみるが、たっぷり寝た後では眠りの世界から跳ね返されてしまう。起きていれば延々と同じことばかり考えてしまう。でも、ただ、だけど。そんな埒が明かない思考にいい加減うんざりして、気が付けばは部屋を抜け出していた。起き抜けこそ少し具合が優れなかったものの、もう足元がふらつくことはない。探検スタートである。

 きっとジャックはこの館のどこかに居る筈だ。こんなに大きな館の中でその一室を見つけ出すのは容易ではないだろうが、大抵の場合、主の部屋は最上階にあるものではないだろうか。これで階は絞られる。あとは虱潰しにしていけばいい。

(うん、地道にいこう!)
 と覚悟していたが、存外早くそれは見つかってしまった。部屋の中から聞こえる言い争いが、そこに誰が居るのかを教えてくれたのだ。

 中では常盤が、先程とは別人のような冷たい声で、彼が使いそうもない言葉で誰かを罵っている。は街でピーターに遭遇した時の常盤の様子を思い出し、彼には意外と激しい一面があるのだなと思った。そんな常盤を淡々と宥めているのはピーターだ。耳を澄ませば僅かに聞こえる、元気のない相槌を打つ三人目の声。

(言い争いかと思ったけど、一方的みたい。とりあえず落ち着くのを待とうかな)
 はすぐ隣の部屋が空いていることに気付き、するりとそこに忍び込むと壁に耳を寄せる。話は重要な部分を過ぎてしまったのか、内容は上手く掴めなかった。とにかく険悪な雰囲気である。
 ほどなくして、常盤とピーターの二人が部屋から出たようだった。はじっと二人の足音が遠ざかるのを待つ。しかしどちらかの足音が、が居る部屋の扉の前でピタリと止まった。の心臓が早鐘を打つ。

「ピーター、何してるんだ。行くぞ」
「……ああ、うん」

 扉の前から、気配と共に足音が遠ざかっていった。はホッと息を吐く。……今のはピーターの方だったらしい。彼はこちらの存在に気付いていたのかもしれない。油断できない奴だ。

 は完全に二人の気配が感じられなくなるのを待って、そっと部屋から出た。そして隣の部屋をノックする。少しの間を空け、中から低い声で「誰だ」と問われた。はそれに答えることなくドアを開ける。

(返事を待ってる分、わたしの方が良識あるよね。多分)

 ベッドの上で上体だけ起こしたジャックは、具合の悪そうな青白い顔で、気力無さ気にドアの方を見る。そしてマナーのなっていない来訪者が誰なのかを確認すると、ぎょっと目を見開いた。は思っていたよりも病人らしい彼に「どうも」と挨拶して、ドアを閉めると近くの壁に背を凭れる。ここなら何かあった時にも、すぐ逃げられるだろうという考えだ。

「何しに来たんだ」
「……お見舞い?」
 まあ人のこと見舞ってられる立場じゃないんだけどね、とが笑う。そんなを不気味なものでも見るように、警戒するように、彼の目が見張っている。

「俺を責めに来たんじゃないのか、お前は」
「わたしに責められたいの? ……謝って欲しいなんて思ってないから、安心して」
 ジャックは言葉を詰まらせ視線を逸らす。は彼の反応に驚いた。謝る気など更々無いと、嘲笑されると思っていたからだ。または酷い言葉を浴びせられるかもしれないと。部屋に入った瞬間に追い出される覚悟さえしていたのだ。は大分弱っている様子の彼に気が削がれる。

 ジャックはジャックで、どうしていいか分からずにいた。意識が戻った時、真っ先に思い出したのはの姿だった。

 自分を青バラの悪夢から解放した少女。不慣れながらも迷いの無い太刀筋で蔓を切り裂き、青バラの魅せる“姿”に捕らわれていた自分に、それはただの幻だと残酷な現実を突きつけた。敵を救ったというには慈愛の欠片もない、冷たく熱い瞳。

『わたしは、わたしがやりたいようにやるだけ。偽善じゃない。善だとも思わない。これがわたしの正義なの』

 それは己に対してのみ正直に生きている、ブレない唯一のものを持っている人間の目で、顔で、言葉だった。射しこむ夕日を赤々と浴び、彼女の目にだけ映る何かを見据えた、遠い横顔。……彼女という存在が、自分の中に鮮明に刻まれてしまっていた。

 ジャックは深い溜息を吐いて頭を抱える。は心配そうな声を出すが、駆け寄ることはしない。

「大丈夫?」
「自分を殺そうとした男の心配か? めでたい頭だな」
「“殺そうとした”ということは、過去形でいいんだよね?」
 ジャックはの言葉に、自身でも答えが見つかっていないのか「本当にめでたいな」とだけ言った。彼の中にある異世界人への殺意は変わっていない。だが目の前の少女を異世界人と簡単に分類してしまうことが、今は難しい。

「あなた、本当に顔色悪そうだけど……大丈夫?」
「お前こそ、なんでそんなにピンピンしてるんだ。青バラと居た時間は俺より長いだろ。お前は青バラに何を見たんだ?」
「何って……虫とか、幽霊とか」
 の答えにジャックは毒気を抜かれ、ポカンとした。

「なんて単純な……」
「単純な頭で悪かったね。っていうか虫とかほんと、トラウマになってるからね?」
 は今更ながら、そういえば彼に敬語を使っていないな、と思った。おかしなもので、何故か事件の前より今の方が、彼を近くに感じている。

「じゃあ、あなたには何に見えたの?」
 が何気なく問いかけると、ジャックの表情は固まった。……地雷を踏んだかもしれない。触れない方がいい話題だっただろうか。「答えなくてもいいよ」とが言うより先に、ジャックが口を開く。

「一番見たくない、一番忘れたくないものだ」
 ジャックは絞り出すような声でそう言うと、窓の外を見た。

 そこには見慣れた赤い空が広がっている。禍々しく燃える赤。切なく染まる橙。複雑に織り重なる色が、重々しく空に蓋をしていた。

(“彼女”は澄み渡る青空が、よく似合う人だった)
 ジャックは目を閉じて、瞼の裏に青空を描く。青空の手前には偽物ではない、自身の中に眠る本物の“彼女”の姿。ジャックは丁寧にそれを確かめながら、遠い記憶を手繰り寄せた。 inserted by FC2 system