Act18.「ジャックと青バラ(後)」



「ああもう! わたしは剣山じゃないんだから、花なんか活けないでよっ!」
 追ってくる青バラから逃げ、地下水路を疾走する。しつこく纏わり付いてくる青バラを蹴り飛ばし、踏みつけ、毟って投げる。青バラの精神的な攻撃は既に脅威ではなかったが、物理攻撃は別である。直接的な痛み、奪われる体力で、心が折れそうだった。

 複雑に入り組んだ、冷たく不気味な地下水路。後ろから迫ってくるのは、少しでも油断すれば足を絡め取り転ばせてくる怪物。怪物の棘のついた蔓の所為で、の体は傷だらけだった。この状況で自分を奮い立たせるために、独り言ばかりが増えていく。

「っていうか。恐怖が餌ってどんだけ根暗なの? 光合成ならぬ闇合成?」

「もしかして幸福な感情に弱かったりする? あー……幸せってなんだっけ。歌でも歌えばいいのかな?」

「うわあ。何かさっきもここ通った気がする! なんでこんな迷路みたいなの!?」
「敵に攻め込まれた時に避難経路として使うためだ」

 独り言に、思いもよらない返事が返ってきた。は足を止めて薄暗い道の先に目を凝らす。頼りない壁の灯りに、ぼやりと人影が浮かび上がった。暗闇に目の慣れたは、すぐにそれが誰であるか気付く。……ジャックだ。今更何をしに来たのだろう。には青バラよりも彼の方が恐ろしく感じられた。

 ジャックは、まるで幽霊でも見るような目でを見る。
 ……何故未だに彼女は無事で――無事どころかピンピンしているのか。彼女は背後の青バラを、余裕を持っていなしているようにさえ見えた。

「やっぱり、異世界人こそ化け物だな」
 そう言って、ジャックは再びに剣を向ける。が無事だった時には、常盤やピーターが彼女を助ける前に、自らが手を下さなければならない。ジャックはその為に彼らを撒いてここまで来たのだった。

「なんで……わたしを殺そうとするの?」
「お前が異世界人だからだ。異世界人はこの世界を不幸にする」
「何を根拠に」
「前例がある。いくつもな」

「そんなの関係ない。わたしはわたしで、他の誰でもない!」
 の強い口調に、ジャックは目を見開く。彼の中のは少なくとも表面上は大人しい印象で、ここまではっきりした物言いをする少女ではなかった。ただ彼女の事をこれ以上知りたいとは思わない。知りたくない、分かりたくないのだ。自分のすべきことを見失いたくない。

 ジャックは剣を振り上げた。はその迫力に逃げることもできず、反射的に目を瞑る。

 ――が、鋭い爆発音と、金属を弾く高音、いつまでたっても訪れない衝撃に、ゆっくりと目を開けた。

 ジャックの手に、剣が無い。彼は空になった手をもう一方の手で押さえ、痛みに呻いていた。剣は少し離れた場所に転がっている。

!」
 はその声に安堵した。自分の味方だ。声の方を見ると、水路を挟んだ向こう側に常盤とピーターの姿がある。……しかし、彼らの居る場所とこちらとは柵で隔たれており、安堵はすぐに薄れた。
 は常盤の手元にある銃を見て、彼の放った銃弾がジャックの剣を弾いたのだと理解する。(剣に銃に……この世界に銃刀法は無いんだな)

 常盤は世界観を壊すような“現代的な懐中電灯”で達の方を照らした。は眩しそうに目を細め、青バラはたじろぐ。

 光が映し出したの姿を見て、ピーターは顔を顰めた。一言、悲惨である。彼女の体には至る所に掠り傷や刺し傷があり、血が服に点々と染みを作っていた。その様子は見ているだけで痛々しく、青バラに散々な目に遭わされたのだろうということが分かる。だがその目はまだ光を失ってはいない。寧ろこれまで見てきた彼女の中で一番、強い光が宿っていた。

(なんなんだ、あの子は)
 彼女は一体、何者なのか。ピーターが知っているのは、初めて会った時に子供みたいにキラキラした目で自分を追いかけてきた彼女。兵士達に怯え、白ウサギの役に戸惑い、銃声に震える弱々しい彼女。街で再会した時の、やけに好戦的な態度で突っかかってくる彼女。どれもバラバラで一つに収束できない。

、その場から離れろ!」
 常盤の言葉に、はハッとする。青バラが怯んで自分から離れている今がチャンスだ。急いで走り出そうとする……が、目の前に自分より遥かに大きな男が立ち塞がる。

「逃がさないぜ」
「……しつこいな」
 恐怖を超えて、怒りが湧いてくる。はジャックを睨み上げた。

「ジャック、に手を出すなら、」
 常盤は「撃つ」と言いたかったのだろう。しかしジャックがをその腕に捕らえたのを見て、彼は言葉を失った。ジャックはニヤリと挑発的な、嫌な笑みを浮かべる。

「これで撃てないだろ?」
「ちょっと。あなたね、わたしと心中でもする気なの?」
 は再び迫りくる青バラの気配を感じながら、呆れた声で言った。が、「もう、それでもいいかもな」とジャックが答えるのを聞いて閉口する。正気でない相手に何を言っても無駄だ。

 青バラは光を浴びて激昂したのか、増えた餌に歓喜したのか、突然狂ったみたいにその蔓を振り回し始めた。反射的に蔓を避けようとしたジャックが、一瞬腕の力を弱めたのをは見逃さない。全力で体当たりし、何とか隙間から抜け出る。

 ガシャン、ガシャンと、蔓は手あたり次第に壁の灯りを叩き落としていった。灯りはガス灯に見えていたが中は火ではなく電気だったらしい。光はパッと消え、とジャックは闇に囲まれる。
 そして偶然――否、必然的に、常盤の手元の懐中電灯が点滅して光を失った。それはこの空間で、青バラの力が上回ったことを示している。

「おかしい」
 ピーターがポツリと言った。……青バラは光に弱い。いくら地下水路の灯りが外に比べて弱いとはいえ、ここまで自由に動き回り、自ら灯りを消すことなどできるだろうか。強力なアリスネームを持つキャラクターを複数相手にし、それより優位に立つことなどあり得るだろうか。
 目の前の青バラは文献上のものより、間違いなく強化されている。それがアリスの異変によるものなのか、異世界人の血を吸ったことによるものなのかは、分からない。

 隣で常盤が、何か言葉を発した。その言葉は、この世界でもごく一部の者のみが読み解き操ることができる特別な言葉である。原子レベルの世界に働きかけ“現象”を発現させる……魔術の類だ。

 ――常盤の手に、炎が赤く揺らめく。
 青バラがに近付く前に燃やしてしまおうということらしい。

 は常盤の意図を察して、ジャックに邪魔されない内に青バラと距離を取った。だがジャックは邪魔するどころか、微動だにしない。彼の目は青バラに釘付けになっていた。近付き過ぎて、青バラにターゲットとして認識されてしまったのか……ジャックはきっと、彼の中の何かを青バラに見ているのだろう。

 炎が青バラに向けて放たれる。ジャックは何故か、青バラを庇うように前に出た。常盤は炎が彼の背を焼く寸前で、慌ててそれを消す。ピーターは常盤のその様子に、ジャックに対する殺意はそこまで高くないらしい、と少し安心した。

(なんで、庇ってるの?)
 は、愛おしそうに青バラを抱きしめているジャックが、不可解だった。彼の目には今、青バラは恐ろしいものか悲しいものか、何であっても見たくないものに見えている筈なのだ。何故護ろうとするのだろう。だが、思い当たることはある。
 自分にとっての紫のように、彼にとっても誰かの姿に見えているのかもしれない。人の恐怖とは、虫や幽霊なんて安直なものより、もっと複雑なのだ。

 ジャックの体に蔓が巻きつく。棘が刺さる。青バラが恐怖を糧に、増殖する。数が増えるだけでなく、その蔓は腕ほど太くなり、花は頭ほど大きくなった。まさしく怪物である。供給を止めなければならない。

 は虚ろな瞳で捕らわれたままのジャックに「ねえ!」と声をかけるが、彼にはもう何も届いていない。はぞっと血の気が引いた。人の心が吸われ減っていくところ。体と心が本能的にその光景を拒絶する。

 青バラとは、こんなにも恐ろしい生き物だったのか。先程まで自分が相対していたものとは桁外れの化物に思えた。このままではジャックが殺されてしまう。そう思ったは急いで落ちていた剣を拾い上げた。初めて持った剣は驚く程重く、底知れぬ嫌な感じがしたが、何とか振り上げ、どうにか振り下ろす。バラの蔓は驚くほどスパッとよく切れた。は「よし」と言って、ジャックを捕えている蔓を次々に切る。青バラは攻撃に悶え苦しみジャックを解放した。ジャックの空虚な瞳に感情の色が戻る。最初の感情はに対する怒りだった。

「お前……“陛下”に何をするんだ!」
(陛下……?)
 ああ、やっぱり。とは思った。
 ジャックは青バラに、誰かの姿を見ている。けれどそれは偽物だ。

「よく見て。あそこに居るのは、ただの青バラだよ」
 の言葉に、ジャックは目の前に居るものの正体を思い出す。彼の顔に幸せな夢から醒めたとでもいうような、悲しみと絶望が浮かんだ。ジャックはその場に膝を付いたまま俯き、小さな声で問う。

「どうして、俺を助けたんだ? 俺はお前を殺そうとしたんだぞ」
 その言葉に感謝など込められていない。“余計なことを”と責められているのを感じた。は自分自身にも、彼と同じ疑問を投げかけたかった。何故自分にとって危険な存在である彼を助けようとするのか。青バラにこれ以上力を与えない為ではあるが、それだけではない。……強いて言うなら、彼を助けなければ目覚めが悪くなりそうだから、だ。

「まだ殺されてないから、かな」
「……ボケてんのか? それとも偽善か。反吐が出る」
「わたしは、わたしがやりたいようにやるだけ。偽善じゃない。善だとも思わない。これがわたしの正義なの」

 自棄気味にそう言って強気な笑みを浮かべるに、ジャックは息を呑んだ。自分はこういう人間を知っている。独自の正義で完結し、揺るがない、何も届かない、どこか遠い先を見据えている、そんな人間。ジャックはに、誰かの姿を重ねずにはいられなかった。あろうことか一番重ねてはいけない人を。

 青バラの蔓は切られた先からまた伸びて、より太く強固になる。とジャックは同時に「げ」という顔をした。切っても切ってもこの様子なら埒が明かない。自分達がこれほど近くで囲まれていては、常盤も燃やすことなどできないだろう。ジャックは青バラに大分精力を吸われたようで、立つこともままならなそうだ。絶体絶命の状況には途方に暮れる。

(どうすればいいの……?)

 その時、頭の中で『上だよ』と知らない声が響いた。その声が男なのか女なのか、大人なのか子供なのか考える余裕もなく、は上を見上げる。天井の一部に小さな穴が開いていた。何故それが見えたのか。それは、外に光があるからだ。……夜が明けている。

「上を撃って!」
 の声に、常盤が瞬時に反応してその場所を撃つ。しかし一発では壊れない。彼の行動にピーターも気付いたのか、ライフルを構えた。

 体の奥まで響く轟音。天井が、崩壊する。崩れた石がパラパラと降り注ぎ――そこから眩しい夕日が射しこんだ。

 それはあまりにあっけない最後だった。青バラは太陽の光を浴びると石の如く動かなくなり、その花はカサカサに、蔓はシワシワに乾いて……花弁が落ちると共に、光に蒸発するみたいに消えていく。もう苦しみに藻掻くこともなく、穏やかに消えていく。
 は呆然とその残像を見ていた。バラの透明な輪郭がぼんやり宙をなぞっている。完全に見えなくなると、その跡に何かが光った。近付いて見れば、それは飴玉くらいの大きさの青く輝く石だ。表面がぷっくりしていて艶がある。深い青色は、石の中に海でも広がっているように神秘的に揺蕩っていた。

 宝石か何かだろうか? 思わず手に取ったは、背筋にゾワリとしたものを感じる。石は熱く、冷たく、ドライアイスを掴んだみたいだった。

!」
 常盤に名前を叫ばれ、は「えっ?」と我に返った。崩れた天井から、大きな石の塊が彼女めがけて落ちようとしている。だがは気付けない。そんなを庇ったのはジャックだった。

 は彼の体越しに、鈍い衝撃を感じる。彼は息はしているが気を失っており、重みが容赦なく自分に圧し掛かってきた。だからはすぐに、彼に問いかけることができない。

(なんでわたしを助けたの? わたしを殺そうとしたくせに)

 は血を流しすぎたのか、体力を使い過ぎたのか、はたまた安堵したからか――自分も意識を手放した。彼女の手の中では、青い石が吸い込まれるように消えていった。 inserted by FC2 system