Act18.「ジャックと青薔薇(後)」



ここはどこだろう。

寒くて暗くて、痛くて、悲しい。わたしは一体ここで何をしているのだろう。ここはどこなのだろう。と、今、わたしは辺りを見回そうと首を回したのだろうか?自分が今どんな格好で何をしているのか、それすら分からない。本当に真っ暗なものだから、自分の姿さえ見えない。ここには音も光も、何も無い。無い、無い、無い。なんにも、ない。
暫くすると、だんだん眠くなってきた。眠いというのが本当にこの感覚で間違いないのか、今のわたしには確信が持てなかったが……他に何と言っていいのかも分からない。なんだかもう全てがどうでもよくて、わたしをわたしと名乗ることすらやめてしまいたくて、ゆっくりと瞳を閉じた。けれど、閉じたところでそこにあるのも、黒い世界だった。

ああ、たしかこういうときは……なんといえばいいのだっけ?さようなら、だっけ?さようならさようならさようなら。ここにはほかにだれもいないのに、いったいだれにさようならをいえばいいんだろう。じゃあ、そうだなあ、とりあえず×××にでもいっておくか。



………×××?



誰、それ!

×××、×××!全然音になってくれない声で、その名前を呼ぶ。黒い世界にいくつか白い染みが出来ていた。わたしがその名前を呼ぶ度に、この空間は決壊していく。×××!×××!それは誰、誰のことだった!?
暗闇の中で、突然現われたその名前が革命を起こす。大きくなった白い染みの向こうにふわりと、誰かの姿が見えた。長く艶やかな黒髪に、太陽の下が似合わない白い肌。涼やかな瞳。わたしに向けられる、優しげな顔。ふざけた時の、歳相応の顔。不機嫌な時の、むっとした顔。お昼の後の、ちょっと眠そうな顔。時々浮かべる、理由の分からない悲しげな笑顔。

めまぐるしい。万華鏡みたいに、くるくる回る。彼女は、ああ、彼女は!
違う違う違う、さよならなんて言いたくない、言いたくない!

白い染みの中に手を伸ばしてみたら、くるくる回っていた世界がぴたりと止まった。小さな白い世界の彼女が、大きな黒い世界のわたしを見て、くすりと笑う。



『やあね、眠るときはさよならじゃなくて、おやすみなさい、でしょう?』



(ゆかり!!)



パリン。真っ黒に塗られた壁が、音を立てて割れる。パキパキと崩れていく。ああ、無限に広がっているとおもっていた暗闇の世界は、こんなにも薄い壁で囲まれた狭い空間の話だったのか。壁が殆ど壊れた時、わたしは外の眩しさに目を細める。もう、全然眠くは無かった。……なんて、当たり前か。だってわたしはさっきからずっと、眠っていたんだから。さて、そろそろ起きようか。起きるときは、おはようって言えばいいんだよね。わたしも彼女に向けて、くすりと笑った。
彼女は桃澤紫。わたしの、の、大事な大事な親友だ。

紫はすっと、白い光の中に溶けていった。



目が覚めたら、体中が痛くて仕方が無かった。だから、まどろむことなく瞬時に今の状況に至るまでの経緯を思い出すことが出来る。わたしは白ウサギを追いかけて、不思議の国へ来て、白ウサギになっちゃって、アリスを捕まえなくちゃならなくて、でもスペードのジャックがわたしのことを気に入らないらしくて、その彼の所為でわたしは青い薔薇という存在しないものに殺されかけている。はい、そういう訳だ。
意識が覚醒した後も暫くは、体は動かず声も出せない状態が続いた。ただ、近くで言い合う声が聞こえていた。わたしをこんな目に合わせたジャックと、そもそもの原因を作ったピーターと、それと、わたしが聞いたこともないような低くて怖い声だけど、多分常盤さんの、声。それから、周りの空気と話の様子からして、常盤さんが撃った銃声。暫くそれらを聞いていて、最後に、聞き捨てならないジャックの言葉で、わたしはようやく声が出せるようになった。しかもその第一声目は、自分で言うのもなんだが―――結構キマっていたと思う。……傷だらけでボロボロでなければ、の話だが。

三人は、突然言葉を発したを信じられないという様子でじっと見ていて、はこんな状態を見られていることを恥ずかしく思った。

「全く。さっきから煩くて眠ってもいられないんだけど」
「あ、えっと、……すまない」
「それに、そんなところで喧嘩してないで、助けるとか何とかして欲しかった!」
ジトリと彼らを睨んで文句をぶつけるに、常盤が状況を忘れてたじろぐ。ピーターがそんな彼を庇う様に、口を挟んだ。

「しょうがないでしょ。君はもう、死んでると思ってたんだから」
彼は、感心を通り越して呆れているようだった。確認もせずに失礼な、と、は舌を打ち鳴らす。普段はそういう下品な行動は避けていたが、寝起きだから機嫌が悪くてもしょうがない!

「ああ、もう!わたしは剣山じゃないんだから、花なんか活けないでよね!」
はギシギシと軋む上半身を起こし、両手で纏わりつく花々を毟り取ろうとする。だが、口でいくら強がっていても、もうそこまでの力は残っていないのが事実だった。思うように動かない指が、もどかしい。常盤がに駆け寄ろうとして、ピーターに引き止められる。

「駄目だよ。影に踏み入れたらその瞬間、君だって薔薇にやられる」
「じゃあ、どうすればいい……!そうだ、火で燃やしてしまえば……!」
「無理に決まってるでしょ。無いものを、どうやって燃やすのさ」
ちょっとは落ち着きなよ、みっともない。ピーターの冷ややかな言葉に、常盤は少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。は自分の体を締め付ける青い花を見て、それにそっと触れてみる。……これは、無いものなのか。確かに触ることが出来るというのに。

常盤が「あ、」と声をあげる。一旦落ち着いて考えれば、解決策は単純明快に姿を現した。

「明かりだ!どうしてそんなことにも気が付かなかったんだ!」
「本当にね」
「じゃあ、そこの電灯を持ってくればいいんだな!?」
「ああそうだね、引き抜いて担いで……って正気なの?」
ピーターは疑わしげな目で、溜息を吐いた。
第一此処に来たのなら、どんなものを相手にしなくてはならないか、とっくに知っていた筈じゃないか。ピーターはブツブツそう言いながら、どこからともなく大き目の手鏡を取り出す。

「こんなこともあろうかと、さっき館の中で見つけておいたんだ。多分、高そうな鏡だから光を反射するくらいはしてくれるんじゃないの」
素直な鏡だといいね。と呑気なことを言うピーターに常盤は、もっと早くに出せと言う言葉を口にしている時間すら惜しくて、呑みこんだ。彼は流石に自分の浅はかさに眩暈がしてきていたが、ふらつく足を踏み留めて、その鏡をピーターの手から受け取る。そして、今助けてやる、と彼女の方を向けば……そこには自分より少し大きな壁が、彼女と自分とを隔てていた。

常盤とピーターが何か話しているのをぼんやり聞いていたは、ざっ、と草を踏む音で顔を上げた。少し青褪めた顔のジャックと、目が合う。は一生懸命その顔を睨み上げた。

「どうしてそう、普通に口を利いていられる?」
「さあ。生きてるからでしょ。もしかしたら一回死んだのかもしれないけど、だとしても生き返ったからじゃない?」
「お前は、一体何者なんだ……?」
「さあ。あなたには、何者に見えるのかなあ」
目の前に居るのは自分に殺意を持っている男だ。はすごく怖かったが、それを忘れる程の怒りも感じていた。彼の後ろでは、常盤がジャックを押しのけようと手を伸ばしかけている。しかし何かを本能的に察したピーターが、彼の手を一歩手前で引きとめた。それに対して常盤が何かを言う前に、彼の察した“何か”が明らかになる。



「そんなにわたしのことが知りたいのなら、離れてないで近くにおいでよ」



ざわ。

枝の撓る音と、葉の揺れる音。ジャックにかかる黒い影。ジャックの悲痛な叫び声が、夜の森に響き渡る。が、影の下で笑った。

それは、復讐以外の何ものでもなかった。わたしが何故、こんな目に遭わなくてはならないのかと。こんなに痛くて、格好悪くて、恥ずかしくて。だから、やり返そうと思った。ただ、それだけだ。そんなところで高みの見物をしていないで、あなたも痛い目を見ればいいのだと。
そんな感情に突き動かされたは、動くことを諦めかけていた手に力を振り絞って、近くに垂れていた背の低い木の枝を掴む。そして、大きく撓らせた。そうすれば、長い枝はその影を憎たらしい男へと伸ばしてくれる。影は彼を闇へと引き込んでくれる。
残り僅かな力を復讐などという非生産的な事に使うなんて、愚の骨頂だ。その自覚はあった。言い訳をさせてもらえるならば、自棄だったのだ。もう冷静な判断なんて出来なかった。する必要性が感じられるだけの状況でもなかった。……けれど、別に、こんなことになるのを、望んだわけでは無かったのに。

少女と同じように薔薇に巻かれ、深い闇に引きずり込まれたスペードのジャックは、一度叫び声を上げた後―――を睨んでどうしたらそんなに汚い言葉が思いつくのかというような罵言をいっぺんに浴びせ、る、ことはなかった。彼は何も無い方向に、この世で最も恐ろしいものを見たかのように顔を青褪めさせる。そして、後ずさろうとした腕と足を棘に刺され闇に繋ぎ止められた。彼のその様子は、同じ状況に置かれたとは全く違う。

「あ、あの……大丈夫?」
自分が言うことでは無いと分かっていながら、が声を掛ける。が、彼の目にも耳にも、もうの存在は届かない。も彼が見ている方向に顔を向けたが、やはりそこには何も無かった。
やがて彼は、その正体不明の恐怖から逃れようとしたのか、両腕で頭を抱え込んで世界の全てを拒絶し始める。何度声をかけようが、ジャックの口からは言葉になる一歩手前の出来損ないがブツブツと出てくるだけだった。何がなんだか分からない。彼は暗闇恐怖症なのか?それとも青色や薔薇に対して何かトラウマでもあるのか?すっかり困惑気味のの名を、常盤が呼んだ。呼ばれて振り返ったは、彼の“友人”を見るあまりに冷たい表情に驚き、思わず身を引く。恐らく、気付かれては居ないだろうが。

「青薔薇は元々、内側から壊していくものなんだ。君だって、別に体を食べられたわけでも血を吸われたわけでもないだろう?この花が食べるのは人の“心”なんだ」
でも、じゃあなんでわたしは平気なの……?と、が常盤に問いかけようとしたその瞬間、の目に眩しい光が差し込んだ。その光に、薔薇達は少しだけ怯む。しかし、その光はすぐに見当外れな方向に飛んでいってしまい、彼らはすぐに元気を取り戻した。
は突然の明かりにくらくらしながら目を細める。どうやら常盤が、庭の灯りを手鏡に反射させて、薔薇を追い払おうと試みているようだった。

「こら、言うことを聞け!」
手鏡を怒る彼は傍から見たら少し滑稽だったが、この世界の鏡が滑稽そのものの寄せ集めで形を成したようなものなのだから、仕方ない。第一どうして鏡なんだろう。光を反射するものは他にもあったんじゃないだろうか。“反射させる”ことでは鏡の右に出るものはいないということなのだろうか。
彼の後ろでは、先程までは涼しげだった赤い瞳が“友人”の悲惨な状況に少しだけ揺れている。

(結局、わたしのことを本気で心配してくれているのは常盤さんだけなのね。黄櫨くんの言っていたとおり)

だとしたらその理由なんて、もうどうでもいいのかもしれない。

パリン。何かが割れる嫌な音にがハッとすると、常盤の手元の鏡が粉々になって、破片がキラキラと、地面へと舞い降りているのが見えた。何があったのか、いやずっと見ていたけれど何も無かった筈だ。勝手に鏡が。……と考えている内に、今度はもっと大きな音が破裂する。しかもそれは、一度ではない。

音が止み、辺りが暗闇に包まれる。破裂したのは、照明だった。規則正しく並んだ庭灯の電球が、見えなくなるところまで全て、一瞬にして弾け飛んでしまったのだ。

(なんで、どうして?)
暗闇の中に居たとはいえずっと光の方を向いていたは、突然の闇に恐怖する。自分の体を締め付けていた力が、少しだけ弱まるのを感じた。ああ、いくつかの薔薇達が移動を始めている。新しい獲物でも見つけたかのように!

「月の出ていない今夜、こんな暗い森の近くは彼らのテリトリーだったってことかな。家主のジャックも取り込まれてしまったし」
「何、だと……、こいつらの方が私らよりも存在濃度が高かったと言うのか!」
常盤が闇に慣らせようと目を細めながらピーターに返事を返す。しかし、駄目だ。全く光が無いのだから、何も見えない。

こうなってはもう、絶望しかなかった。ここが青薔薇達のテリトリーならば、ここまで取り込まれてしまった以上、最早自分たちに対抗する術は無い。常盤は状況を理解した。
例えば自分にとってのお茶会や、夢魔にとっての夢の中がそれぞれのテリトリーであるように、彼ら青薔薇にとっては今夜この場所が何より理想的な、願っても無い舞台で、ここでは彼らの存在が一番優先される。つまり、それだけ世界が味方し、“奇跡”の起こる確率が高まるということだ。だから“たまたま”鏡が割れて、“たまたま”庭灯が破裂した。本来なら元より存在濃度の高い白ウサギやジャック、それに自分がいるのだから、植物なんかにそこまで勝手をさせずに済む筈なのだが……何しろその内の二人は既に彼らの手中に堕ちている。勝算は、彼らにある。
足元にざわざわと不穏な動きを感じ取り、ああもう駄目だと思ったが、諦める訳にはいかなかった。彼女だけはなんとかして助け出さなくてはならない。しかし、その方法は見つからなかった。

はといえば、テリトリーやら存在濃度やら―――こんな状況では誰からも説明などしてもらえないのは当たり前だが、やはり困惑していた。常盤がこの世界のことをあまり話したがらないのは知っていたが、だからといって、自分はそこで妥協してはいけなかったのではないだろうか。は自分が嫌になる。知りたいのなら、無理にでも聞けば良かった。読んではいけないと言われていた本を、片っ端から読み漁ればよかった。もう少し、知ろうとすればよかった。何かしなくちゃいけないとは思うだけでは駄目だったんだ。何も出来ないのは、何もしなかったからだ。
いつだってそうだ。変なところで、わたしは慎重になりすぎる。慎重、だなんて言えば思慮深いようだが、ようは体良く楽をする為の言い訳。ああ、こんな最悪な状況だって、わたし次第で回避できたのではないだろうか。わたしがもう少し真剣にこの国のことを考えて、他人事じゃなく自分の事として考えて、ジャックの見せた一瞬の違和感をその場に流してしまわなければ。もっと積極的に協力を乞えば。

もう一度、やり直したい。今を、修正したい。けれど時間が遡るわけもなく、今は間違いなく絶望的な今でしかない。今更後悔なんてしたって、どうしようもない。

このままわたしも彼らも、そしてゆくゆくはこの国も、全てが無に返されてしまうのだろうか。そうしたら?わたしは何も無い真っ白な空間で何を思う?きっと―――そこでも、後悔をするのだろう。
その時、“過去という今”が、本当に諦めるのに相応しいほど絶望的な状況だったというのだろうか、と。何とかならなくても、何もしないなんて愚かだったんじゃないか、と。そう後悔するに違いない。意識が無くなるまで、最後の最後の本当に最後まで力を振り絞って、何かをしたら。そうしたら何か絶望とは違うものが見えたんじゃないだろうか、と。

わたしが今諦めないと心に誓えば、何か一つでも行動を起こせば、たったそれだけでも未来は刻一刻と、違う方向に変わるのではないだろうか。

は自分から離れてゆこうとする数本の薔薇の蔓を、自分の腕に巻きつけるように捕まえる。

「それ以上あっちには、いかせない」
そうして、無理矢理笑顔を浮かべた。笑顔は、きっと状況を良い方向に導いてくれる筈だ!笑うことでアドレナリンが放出されて、健康になるぐらいなんだから!!確か!!

ピーターは、普通の人間よりは夜間の活動に適した目で、僅かな星明りを頼りに周囲を見回す。そして、どうすればいいのかを考えた。青薔薇は在りもしないものなのだから、物理攻撃を与えるのは不可能。唯一彼らの恐れる光は、破壊されてしまった。なら、どうすればいい。考えればきっと、どうにかなるはずだ。
そうこう思案を巡らせている内、ブーツに蔓が絡み始め、そしてそれは、序所に序所に上へと上がってくる。心臓の当たりがざわざわして、頭痛がした。忌々しげにそれを踏み潰すが手応えは一切ない。

(何でこんなことになった?誰の所為で?……僕じゃないとは思うけど)
その時、膝の辺りまできていた真っ青な薔薇が、突然動きを止めた。どうやら蔓が何かに引っ張られて、それ以上進めないらしい。どこかに引っかかっているのだろうか。ピーターがその蔓の先を追うように視線を動かすと、その終わりに居たのは、

だった。

「……君はどうして、無いものを捕まえておけるの」
「無いものだなんてよく言う。わたしは目に見えないものを信じるのは好きだけど、目に見えるものを信じないことなんて出来ないからね」
そう言った少女の手には無数の棘が刺さり、血が滴っていた。

、無事か!」
「まあ、どちらかといえば割と」
は常盤の声の方を向いて、また笑う。誰の為でもない、自分の為の笑顔。恐怖と疲労でガチガチに固まった顔の筋肉は、一度成した形を勝手に留めていてくれるからいい。本当の意味で、笑顔が貼り付けられている。
笑う角には福来たる。さあ、早く福よ来い!実はもうそこの、一個向こうの角まで来てるんじゃないのか?だとしたら早足で、早く!早く!この際奇跡でもなんでもドドンと起こしちゃってよ!

「……わたしは、帰らなくちゃいけないんだからさ」
ぼそりと呟いたの言葉は、二人には聞こえなかったみたいだ。彼女も、誰に聞いて欲しかった訳ではない。

けれど、聞いている“モノ”は居た。

ざわざわざわ。あたかものその呟きをきっかけにしたみたいに、森が騒ぎ出す。まるで“本当に生きている”みたいに、木々が暫くじっとしていて疲れたのだと、体を大きく振り出したのだ。驚き、呆気にとられるだったが、不意に優しいぬくもりを感じて目を閉じる。暖かい。太陽みたいな強く確かな暖かさじゃなくて、儚げな、空気に溶け込んだ、綿菓子みたいな暖かさ。なんだか心地よくて、眠くないのに眠りたい。
けれど真っ暗な瞼の裏に閉じ込められた瞳が、その先に何か求めていたものを見つけて、早くそれが見たいと我侭を言う。

ああ、ようやく奇跡でも起こるのね。

はゆっくりと、世界を視た。


新月の夜空に、十六夜の月が姿を現す奇跡。その優しい光を浴びて、青薔薇たちが耳鳴りのような悲鳴を上げる。それはまるで、太陽の下に晒された吸血鬼だ。花々は見る見る内に煙となって消えていった。しかし、元より木陰に入っていなかった常盤とピーターは別として、の周りにはまだ仄かな闇が残っている。は、力なく絡み付いてくる薔薇の蔓を無造作に払って、ようやくの思いで彼らから逃れた。不思議と月明りを感じた身体は軽く、痛みと脱力感は薄まり、力が湧いてくるようだった。はゆっくりと立ち上がる。柔らかな光と闇の境界で、常盤が手を差し伸べていた。
ああ、わたしは助かったんだ。と思うと、膝から崩れ落ちてしまいたくなった。のだけれど、まだ、立っていられる気力がある。と、いうことは、まだやるべきことがあるのだろう。はその手を取らずに、後ろを振り返った。

そこにはより深い闇に引きずり込まれ、未だ囚われたままのジャックが居る。もはや何を呟くこともせず、ただ空ろに薔薇に喰われているだけのその人。彼を気にするに、常盤は「早く来なさい」と言った。そんな奴は気にしなくていいから、と。ピーターはそんな常盤に、苦渋の色を浮かべている。

わたしが助けなくても、この二人や館の人が彼を助けるだろう。でも、常盤は彼を許していないようだし、ピーターもどちらかといえば常盤寄りのように思える。だから、今、急いで彼を助けようとはしないんだ。館の人が来て彼を助けるまで、一体どのくらい時間がかかるだろうか。それは、間に合うのだろうか。
……なんて、実際は全然悩むことはなかった。今ここに降り注いだのが本当に奇跡だとすれば、誰一人として救われない者があってはならない。それは奇跡を完璧にする為に、しなくてはならないことだ。
仄かな闇から薄暗い闇へと足を踏み出す。、と、常盤が呼び止めたが彼女は振り返らずに軽く手を上げて応えただけだった。彼が今にもこちら側へ来てしまいそうな気配を感じたから、その動作には、こっちに来るなという意味も込めている。だって奇跡がいつまで続くかなんて分からないもの。
しゅるりしゅるしゅる。再び足に絡み付いてくる薔薇の花を月を浴びた瞳で睨むと、彼らは縮み上がった。奇跡はまだ終わっていない。が何かしようとすれば、世界が協力してくれる。影を作っていた木々の葉が、彼女に月明かりが少しでも届くようにと互いに身を寄せ合った。

一筋の光がジャックの瞳に差し込むと、彼は僅かに身体を揺らした。は彼の元まで歩み寄ると、思いっきりその頭を叩く。ペシン!場に不釣合いな小気味良い音が響いた。

「………?」
ジャックの目がようやく、この世界を見るということを思い出す。朦朧とする意識の中で覗き見た世界の大半を占めていたのは、無表情に少しだけ唇を噛んでいる傷だらけの少女だった。
少女は自分と同じように傷付いた彼の腕を乱暴に引っ張り上げて、ぶっきらぼうに言い放つ。

「ちょっと、早く立ち上がって。わたしに運ばせる気じゃないでしょうね」
がそう言えば、ジャックは言葉だけは理解したのかふらりと立ち上がろうとする。しかし感情はどこかに置いてきてしまったかのようだった。まるで人形のような表情の無い彼の、覚束ない足取りを横で支えるようにして、は光の下へと歩き出す。その姿に何を思ったのか、頭の固そうな古木の枝までもがぐにゃりとおかしな格好になって月明かりを降らせた。

もう、薔薇の花はどこにもいなかった。逃げ遅れた花々がただ辺りに、紫煙として漂っているだけ。常盤がに駆け寄る。ああ、そろそろ崩れ落ちてもいいだろうか。

―――やるべきことを終えたわたしは、途端に力を失った。

慌てたように常盤さんがわたしの身体を受け止めて、それから、わたしの上に圧し掛かろうとする力ないジャックの身体を寸でのところでピーターが支えて、それから、それから、怖かったなあとか痛かったなあとか色々な感情が渦を巻いて、ぐるぐるして、ひゅー、すとん、って、

わたしは意識を失った。
inserted by FC2 system