Act17.「ジャックと青バラ(前)」



 視界は蠢く闇に支配され、天地すら定かではない。太く硬い蔓が足を取り、腕を取り、胸を締め付ける。棘は容赦なく皮膚を突き破った。喉と鼻をつくバラの匂いに思わずむせ返る。無理に何かを隠しているみたいな強すぎる偽りのにおい。……これが話に聞いた青バラなのだと、は直感で理解した。

 幽霊でも植物でもない、人を喰らう恐ろしい怪物。その怪物に丸飲みにされ、消化されつつあるような、気持ちの悪い感覚が全身を巡っている。

 はこれまでテレビで蛇が獲物を丸呑みにしているシーンを観ても「わたしだったら絶対中からお腹を突き破るのに」という謎の自信があった。実際は丸呑みにされると窒息状態になって気絶し、暴れることもできなくなるらしいのだが……。
 現状、まだ息はできた。意識もある。だから――わたしは暴れなくてはいけない。

 は自分の体に絡みつく蔓を、がむしゃらに剥がそうとした。手あたり次第掴み、ねじり、噛み付く。それは想像以上に効果てき面だったらしく、青バラは怯んで拘束の力を弱めた。精一杯もがいていたは冷たく湿った地面に投げ出される。しかし助かった……と安堵する暇はなかった。

 薄暗いその場所は、外ではない。僅かな灯りのみが頼りの視界には石の壁、石の天井。空も森もどこにもなく、籠った空気に満ちている。水の気配がすることから……恐らくここは、青バラが潜んでいると言われていた地下水路ではないだろうか。
 そして目の前にいる怪物、青バラ。彼らは邪魔が入らないように自分の巣に餌を運んだのだろう。きっと今も、解放されたのではなくただ運び終わった。それだけのこと。

 は、薄ぼんやりと浮かび上がる巨大な姿を見つめる。見てはいけないものを見ている気分だった。しかし不思議と視線が逸らせない。それは一見すると一つの塊だが、よく見れば集合体だ。一つ一つは不確かな形で、移ろいながら青白く発光している。光っているのにあたりを照らさない。寧ろ周囲の光を吸い取っているような、不気味で怪しい光。光なのに、闇。は形容しがたい不安に駆られた。

 青バラはに向かってずるずると這う。近付くにつれ、徐々にその姿形が定まっていく……深淵から、何かが顔を出した。

 それは巨大な虫だった。いや、小さな虫の巨大な集まりだった。青い光から噴き出したのは無数の虫。薄平べったい体、茶黒い光沢の背、体の横から突き出た数本の脚、長い触覚。蛇腹の腹は艶やかに湿っていた。カサカサカサ……痒くなるその音に、はショックのあまり気を失いそうになる。

(いやいやいやいや、無理無理無理無理!)
 身の毛がよだつ。頭が真っ白になる。虫は波の如く押し寄せ、の靴から脚、上へと登ってきた。痒い、痛い、気持ち悪い、嫌、

「ああああああ!」
 半狂乱で、叫びながら必死で振り払った。その場でジャンプした。剥がれた虫が地面に落ち、靴の下でプチュリと潰れる。その感覚が何度も何度も続き、意識が遠くなった。

 一体何故、どこから虫が湧いて出たのか。混乱する頭で、ただひたすら虫を払い、潰し続ける。まさに悪夢だった。いつか自分の全てを埋め尽くすのではないかと思われたその大群は、しかしまた突然、煙みたいに姿を消す。は暴れるのをやめてぐったりした。恐ろしさと安堵で涙が滲む。

 ぼやけた視界で、また一瞬だけ青白い光が見えたのも束の間――今度は、女が姿を現した。

 女は普通の女ではない。足元まで伸ばされたボサボサの黒髪。乾いた紙粘土を思わせるガサガサの白い顔。麺棒で伸したみたいな平坦な顔の中で、大きく引き攣れた目がギョロリとこちらを見た。首と腕が異様に長く、全身を強く打ち付けたかのように関節の向きがおかしい。

 女はの腕を掴み、迫った。は声にならない悲鳴を上げる。怖い、嫌だ、逃げたい。虫の次は幽霊だって? 幽霊の存在を疑った罰だろうか。何故こうも、嫌なものばかり現れるのか!
 女の目が視界一杯に近付いてくる。は思わず――勢いよくその腹を蹴り飛ばした。女は地面に伏して蹲る。弱々しい所を見ると恐怖心が薄まり、それと共に女の姿も朧になった。まるで幻のように。

(ああ、分かった……これは全部、幻だ)

 人間の恐怖や悲しみを糧にする青バラは、その人が恐怖する姿に見えるという。だから嫌いな虫や、過去にどこかで見たホラー映画の幽霊に見えただけなのだ。と、は気付いた。
 地面に伏した女は、また青いバラの姿に戻り、次なる姿を探している。こちらの恐怖心を増幅させるためにトラウマを探っているに違いない。は自分の心の中を土足で踏み荒らされる不快感を覚えた。

(青バラにはわたしの心がお見通しなんだろうか。わたしが一番怖いと思っているものが分かるんだろうか。……わたしの、一番怖いもの?)

 虫は怖い。幽霊も怖い。人並みに怖い。だが一番とは違う気がした。自分が一番怖いものは何だろう?
 死という概念。退屈な日常。にはどれもしっくりこない。本当に怖いものは何か……それを考えていくと、心の奥に鍵が掛けられているみたいに、どこかで行き詰まる。何かを忘れていて、どうしても思い出せない歯痒い感覚。自分の中にそんなものがあるなんて考えてもみなかった。

 青バラは数秒の間、静かにを観察し、三回目の変身をする。今回も女の姿だった。だが先程とは全く違う。艶やかな黒髪に、涼やかな目元。儚さと物悲しさを纏う、他の誰とも似つかない少女。

 青バラは“桃澤紫”の姿をしていた。は突然の親友の姿に呆然とする。その紫もどきは、がよく知る彼女の笑みを浮かべ……その手に、鋭く光るナイフを握り締めていた。は危険を察知し我に返る。

(紫の姿になってどうする気? わたしを殺そうとでもする? それともわたしの目の前で……紫に自ら命を絶たせようとでも? そんなこと、)

 は恐怖とは違う感情が完全に勝るのを感じた。そしてその感情に身を任せ、紫もどきに歩み寄り、白い首に手をかける。その手のナイフなど怖くはない。どうせそれも幻覚だ。

「紫は、そんなことしない」
 軽々しく彼女を騙るな。

 見慣れた顔は苦し気に歪むが、その表情は見知らぬ他人のもの。全く罪悪感や抵抗が無いと言えば嘘になるが、耐えられない程ではなかった。次の瞬間には、紫もナイフもサッと消えていく。はそれを見届けて「はあ」と息を吐いた。

 青バラは中々次の姿が見つからないのか、元の姿のままざわめいている。は不思議と、自分がこの怪物に負けることはないと確信した。



 *



 ジャックは庭園のベンチに腰かけ、何をするでもなく空を見上げていた。紺碧の海、雲の波間を、月が泳いでいる。

 がトンネルの奥に姿を消してから、大分時間が経っていた。暗闇の地下水路は青バラの土俵であり、その力が最大限に発揮される場所である。そこで青バラの大群に襲われた彼女は、恐らくもう自我を保っていないだろう。ジャックは自分の部屋に戻り、何事も無かったように夜明けまで眠らなければならないと分かっていたが、どうしてもそんな気にはなれなかった。

 館にいる使用人達は、何も知らない。何も背負っていない。と館を出る時は、彼女には近道だと言って裏口を使ったため、自分たち二人が共に居たことさえ気付かれていないだろう。……彼らが自分に対して抱いている印象や感情は、分かりやすかった。頼りになる、信頼できる、面倒見のいい雇用主。そう見られるようにしてきたのだ。しかし自身の努力で勝ち得たその眼差しを、今だけは近くで感じたくなかった。

 自分の手は大義名分のもと、汚れている。その汚れが正義の結果であるという確信が、ジャックは持てなくなってきていた。異世界人が危険な存在であるのは事実である。彼らを排除する意思は覆らない。それでも……それは誰の為なのか。世界の為なのか。ただの――俺のためだけの、復讐ではないのか。

 月が厚い雲に隠れ、辺りが薄暗くなる。

「二人揃って夜の散歩か? 随分仲が良いんだな」
 ジャックは空を仰いだまま、庭園の来訪者に声を掛けた。そこに居るのは常盤とピーターの二人である。空気がピリッと張り詰めた。

「ジャック。君、こんなところで何して、」
はどこだ」
 ピーターの問いかけを常盤が遮る。それは鎌をかけているのではなく、ジャックがをどこかへ連れ去ったと既に決め付けているものだ。恐らく既に彼女の部屋が空なのは確認済みなのだろう。ジャックは、まさかこれ程弁解の余地がないとは思っていなかった、と苦笑した。もう何を言っても無駄だろう。繕う気力も無い。

「さあ、どこだったかな?」
「……忘れたとでも言うなら、お前の脳に直接聞いてやろう」
 常盤は怒りと苛立ちを含んだ声でそう言いながら、ジャケットの裏に手を伸ばす。隣のピーターが止める間も無く一瞬の内に、彼は拳銃の銃口をジャックに向けていた。

「常盤、落ち着いて。僕達がここでやり合っても仕方ないでしょ」
「邪魔するなピーター」
 そんな二人を、ジャックはまるで他人事みたいに笑う。そして重そうに腰を上げた。

「お前、マジでどうかしちまったんじゃないのか。何でそこまで必死になる? この数日で、たかだかあんな少女に誑かされたとでも言うのか? はは、お前もちゃんと女に興味があったんだな」
「ジャック!」
 黙っていろと、ピーターが声を荒げる。今の常盤なら本当に撃ちかねないというのに、ジャックは彼の神経を逆撫ですることを言うのだから、どうにかこの場を収めようと考えているピーターには腹立たしい事この上なかった。ピーターは二人の間に立つ。

「あの子は地下水路に居るんでしょ? 君の館から地下水路に繋がる入口があるのは、知ってるんだよ」
 ピーターの言葉に、ジャックは不快を露にする。ピーターはどこまで何を知っているのか。彼の飄々とした顔は何でも知っていると言わんばかりだ。今地下水路に行かれて、万が一まだが生きていて、間に合ってしまっては困る。なら二人をここで足止めするか。……いや、一人で二人を相手にするのは分が悪い。自分はこの二人を殺す気はないのだから。

 ジャックは身を翻し、駆け出した。常盤の銃口が火を噴き、彼の長いコートの裾に穴を空ける。しかしその足は止まらない。ここは勝手よく知ったる彼の庭で、彼は数々の戦場を潜り抜けてきた歴戦の戦士だ。彼が本気で逃げるなら、誰がどこまで追いつけるだろうか。

 ピーターは常盤と共にジャックを追いながら、心の内で悪態を吐いた。

(最悪だ……本当に……何もかも面倒すぎる!)
 自分が連れて来たとはいえ、やはり異世界人に関わって良いことはないと、しみじみ思った。 inserted by FC2 system