Act16.「BAD END」



ジャックに案内されながら、は夜の庭園を歩いた。手入れが行き届いているそこは、絵画のように美しい。ぼんやりと灯りに照らされる葉の緑と、浮かび上がる花々の赤白黄色が幻想的で、は時々歩くことを忘れる程だった。空気は、香しい薔薇の香りを含んでいる。……しかし、いくら探しても薔薇の花は見当たらなかった。確かに強く香っているというのに、その実態がどこにもないのだ。それが不思議だった。
何も言わないに、数歩前に居たジャックが振り返る。

「どうかしたか?」
「あ、いや、綺麗なお庭だなあと思って」
綺麗だ。なんて、ここに訪れた何人の人が口にした言葉なのだろう。ありふれた、つまらない賛辞だ。は、もう少し別の言葉で表現できれば良かったのに、と悔しく思う。

「だろ?自慢の庭なんだ」
でしょうね、と相槌を打ってあちらこちらに目を移らせていると、気付いた時には彼との間に随分な距離が空いていた。首だけ後ろに回した彼が、遅い、とでも言うように苛々と手招きをする。いくら足の長さが違うといっても、にはジャックが随分と早足で進んでいるように感じられた。散歩、と言っていたけれど、どこか目的地があるのだろうか。は多少の不審感を抱いたが、駆け足で彼に追いついて横に並ぶ。

「どこか、行くところでもあるんですか?」
「ん?いや、散歩だろ?目的なんて無いぜ。気の向くままに歩くのが散歩だからな」
そう言いながらも、彼の目はしっかりと前を見据えている。それは凄く真剣な顔で、はちょっと格好良いとも思ったけれど、やはり分からないことは怖い。彼も常盤と同様に、重要なことは何も話してくれないのだろうか?膨らんだ疑問でパンク気味のはもう、訊く気力も失せ始めていた。
……全てを訊いてしまったら不思議が無くなって、不思議の国ではなくなってしまうのかもしれないけれど。

ジャックが突然足を止める。考え事をしていたは、彼の数歩先で立ち止まった。
すぐ目の前には、灯りの無い森が鬱蒼と茂っている。いつの間にか庭を通り抜けて、敷地の端まで来てしまっていたようだ。折り返し地点だろうか。

「あの。歩かないと散歩じゃないですよ」
黙ったまま立ち尽くすジャックに、は何か嫌な予感がした。振り返った先にあるその顔は、その表情は……よく分からない。その時視界の端に何か違和感を覚えて、はそちらへ視線を向けた。

青い。

ぼんやりと青い何かが、暗い森の闇の中に、ひっそりと―――在る。
まるで昔からずっとそこでそうしていたように、ただ、在る。

夜の森を照らす月は、今夜は姿が見えない。館の灯りも森の入り口より手前で途切れており、そこには届いていなかった。しかし不思議なことに、そんな暗闇の中でも鮮明に、その青は視認することができる。
はまるで幽霊でも見るように、その青を見ていた。もしかすると幽霊、というのはあながち間違いでもないのかもしれない。とにかく、どこか不気味で、静かで、奇妙な光景だった。

「あの、あれって……何ですか?」
「君には何に見える?」
何に見えるか、だって?は見てはいけないものを見ている気分で、恐る恐るその青にピントを合わせる。小学生の時に空の絵を塗りたくった青の絵の具。それに染まった筆を水につけたときに溶け出した、あの色。最初はひとつの塊だと思っていたのだが、それらは良く見るといくつもいくつもの、ひとつひとつが集まっている。無数の青が、それぞれに規則性の無い蠢きを見せている。囁くように、蠢いている。

「わたしには、分からないです。本当に、何なの」
「綺麗だろう。あれは、青薔薇さ」
そう答えるジャックの様子は、ごく自然だ。何も恐れる必要など無いのではないかと、は自身を落ち着かせる。

「青い、薔薇?珍しいですね。昔は無かったものですよね。薔薇は青を発色しないとかで……。現代にはありますけれど。」
無いもの、ということで『不可能』などの花言葉を付けられている青薔薇が、は昔から好きだった。だがつい最近、親友にあっさりと発明されていたことを知らされたのだ。全く、夢が無い。どうして人々は幻想的なものを消し去りたがるのか。
ジャックが驚いた様に「へえ、」と言った。

「君のところにはあるのか?残念だな……この国には青薔薇は存在しない」
え、とは思わず声を上げる。今さっき、この人はあれを青薔薇だと言ったのではなかったか。それなのに存在しないとは、どういうことだ。早速矛盾している。普通に進まない奇妙な会話は、本の中で繰り広げられる分には素敵だと思ったが、それが実際だと面倒極まりないのだと、は思った。それはやはり自分がつまらない人間だからだろうか。
は蠢く青をじっと見つめる。よく見てその輪郭を捉えると、それはどこからどう見ても完璧な、青色の薔薇にしか見えない。

「青薔薇が存在しないというのならば、あれはわたしの目の錯覚なんですかね」
「いや、存在はしないが……あれは間違いなくここに在る」
「無いのに、在るんですか」
「無いから、在るんだ。俺もこの国の他の奴らも、青い薔薇なんて無いと知っているから、あれは在る」
彼が話す理論は、屁理屈じみている。はそのような話に、もう随分と慣れていた。

「つまり、“無いもの”として存在してるという事なんですね」
無いものが、在る。では、この国に存在しないものは無いのか。あるとすれば、それは何であるのか。無いということに誰もが気付いていないもの?しかし、無いのであればそもそも気付くべき対象が無い。ならば、この国の“無いもの”とは、“無いものにされた在るもの”なのではないか。

「正解だ。それにしても君は、随分と変なことを気にするんだな。よく言われるだろ?変わってるって」
変なことでも、どうでもいいと無視してしまえることでもない。
夢見がちな性格や考え込む癖から、確かによく「変わっている」と称されてきただったが、ここではそんな自分が割とまともだったことに気付かされる。そして、それはやはりここでは「変わっている」ことになるのだから、普通とはなんと難しいのだろうか。

「ほんと、もっとゆっくり話せたのなら、面白い子だったのかもな」
「ハハ………は?」

“だった”?

突然空気が固まって、全ての時間が止まったように感じた。が隣のジャックの顔を見上げると、勿論、想像通り、そこにあるのは違和感の塊だ。笑っていない、スペードのジャックの、顔。ああ、夕方に見た幻覚は現実だったのだ。

彼がわたしの背を、深い闇に突き飛ばす。また、このパターンか。足が、僅かな灯りで照らされた地面を超えて、闇に踏み込んだら―――もうあとは、あれよあれよという間の話。気付けばざわめく無数の小さな音が、耳のすぐそばでしていた。そうしてそれらはわたしの足を絡めとり身体を地面に縫い付けて、徐々に視界を、見えない筈の青色で埋め尽くしていく。
現況はさっぱり飲み込めていないのに。青青青青青。

(ああああああ、もういい加減にしてよ!)

どうして皆して、わたしの背中を押すの。そんなにわたしの背中は押したい背中なのか。ねえ、どうなのよ!
責めるような気迫を込めたの瞳に、ジャックが顔を背ける。

「闇の中でしか咲くことのできないその青い薔薇は、人の心を取り込んで、枯れるまで精気を吸い尽くし、しまいには殺してしまう、恐ろしい悪魔の花さ」

そんなことは全然訊いてないんだってば!畜生が!!

すっかり体に巻きついた薔薇が、つぷりと、いくつもの棘をの肌に突き刺す。

「痛っ!痛い!」
ちり、ちり、と身体のあちこちが痛い。彼の言うその“悪魔の花”は、非常に空腹だったようだ。久々に餌にありつけたというような歓喜が、その荒々しい動きからひしひしと、痛みを介して伝わってくる。だからどんなに振りほどこうとしたところで、逃がしてくれる筈がないのも分かった。それどころか余計に強い力で締め付けられる。

「どうしてこんなことになったの、なんで、なんで、なんで!」
すっかり混乱して、逆効果だと分かっている無駄な足掻きを続けながら、はただ疑問を吐き出した。それはジャックに対してのものというよりは状況そのものに対するものだったが、彼女に背中を向けたまま、彼はそれに答える。

「不運だったんじゃないか」

不運って、どの口が言っているんだ。青い花に飾り付けられたが苛々と、地面に拳を叩きつける。女の子らしく嘆き悲しめるほど、余裕のある状況ではなかった。

「ああ、不運だったんだよ。そうとしか言えない。不運だったんだ君は」
「だから、なにが!!」
それは多分、生まれてこの方出したことの無いような醜い声だっただろう。痛みと恐怖でカラカラに乾いた喉からやっと絞り出したそれは、妙に低くてしゃがれていた。ジャックが冷たい目で、チラリと肩越しにこちらを見る。

「全部だ。君が白ウサギになったことも、この世界が無責任で自分勝手なアリスに作られたということも、全て不運としか言いようが無いんだ。君も俺も、不運だったんだ」

ぽつりぽつりと、俯き加減で話しているジャックにはうんざりして、溜息まじりに「ふうん、」と言った。「不運」とかけた我ながらセンスの良いギャグだと思ったが、もう少し状況を考えることができたのならもっと良かったのかもしれない。その証拠に、ほら、彼の顔が引き攣っている。

「とにかく、こうするしかなかった。俺は、君に白ウサギで居てもらっちゃ困るんだよ」
そう言うジャックはまるで被害者のような顔をしており、の神経を逆撫でる。あんたは随分勝手な、自己中心的な加害者だ!はそう叫びたかったが、もう声は出なかった。
最後の台詞がギャグだなんて、それこそギャグのようで、笑えない。

「俺は、この世界が消えるなんて言われたら、常盤やピーターみたいに冷静ではいられない。あいつらの前で平静を装うのがやっとのくらい、もう、耐えられないんだ。だって考えてもみろよ、明日になったら家も友人も、他の何もかもが消えてるかもしれないんだぜ?そんなの、誰が納得できる?俺はできない。できないんだ!」

(そりゃ、そうだよ)
悔しいが、彼の言っていることはよく理解できた。寧ろ、簡単に森が消えたなどと言ってしまえる人達の方がおかしいと、わたしもそう思っていた。だから、ちゃんと焦り、どうしようもないと嘆いている彼を見て、わたしは内心ホッとしている。
だが、それとこれとは話が別だ。だからと言って、わたしがこんな目に遭わなくちゃいけない理由にはならない。……とにかく、もう少し彼の話を黙って聞いてみよう。違う、黙っているのはわたしの意思ではなくて―――ただ単に他の選択肢が無いだけだ。
は力の入らない自身の体を、重荷のようだと感じた。

「俺はそんなのごめんだ!あいつらと酌み交わせなくなるのも、城で好きなように剣を振り回せなくなるのも、大事にしてきた庭を眺めて歩くことが出来なくなるのも、全部全部ごめんだ!俺は俺なりに今まで、割と楽しい人生だったんだよ。誰にそれを壊す権利がある?なあ、おかしな話だろ、おい!」
木々たちが固唾を呑んで見守っている。否、もしかすると、動物園の檻の中のパンダを見るように、ただ鑑賞しているだけかもしれない。もっと動けだの、こっち向けだの、言っているのかもしれない。……アリスも、そうなのだろうか。“不思議の国園”の“憐れなパンダ”を、暇潰しの娯楽にしているのだろうか。

「だから、なんとしてでもアリスを捕まえて、奴が忘れてしまう前に、殺してしまうしかないんだ。他にもう、どうしようもない。だから、白ウサギには絶対に役目を果たしてもらわないと困る。分かるだろう?」
ジャックは、自分には非など無いと、言って欲しいようだった。しかしそれをわたしに求めるのは絶対に間違っている。けれどそれくらい彼も分かっていて、けど、もう、本当に全部が全部どうしようもないのだろう。どうしていいか分からなくて、どうにかしてみたけど、後ろめたい。まるでそんな感じだ。

「だから、君じゃ駄目なんだ。部外者の君じゃ、この国は救えない。だって君は所詮他人事にしか思っていないんだろう?だから、“大変そう”なんて悠長なことを言ってられるんだろう?」
大きな痛みでボーっと何も考えられなくなっては、小さな痛みで覚醒する。その繰り返しの中でなんとかジャックの言葉を聞きながら、は思い出していた。大変そう、だなんて、自分は言っただろうか。ああ、言った。多分、言った。あの時、言った。だから彼の笑みがその一瞬消えたのか、と気付いたら、少しはすっきりした気分だ。

「確かに君は、この国の人間じゃないからな。この国が消えたところで、君は、最初からこの国に来ていないことになる、それだけだ。だから、そんな安全な場所に居る君に、この国を救うなんて重役を任せることはできないんだよ」

相手の気持ちになって考えてみましょう。人間が社会で生きていく上で、心を持って人と接する上での基礎基本。それが欠けていたことが、今の状況の原因だとでも言うのか。だとしたら、悪いのは理解させてくれなかった彼らの方だ!

「君には、無理だ。だから、白ウサギの役をピーターに返して欲しい。あいつが何で君にそんな大切な役目を押し付けたのかは分からないが、君のような子を二人も出しはしないさ。今度はちゃんと、あいつにやってもらう。……そもそもあいつが自分の仕事を他人任せにすること自体、今までは無かったんだ。面倒臭がりながらも、仕事は必ず成し遂げる奴なんだ。それに、元々白ウサギだったあいつが一番適任だと、俺は思ってる。やっぱり認識の強度が違うからな」
留まることの無いジャックの言葉は、全て言い訳に聞こえた。の居る現実を、忘れようとしているように見える。ジャックは少しだけ、虚ろに笑った。

「ただ、それには君が邪魔だ。……分かるだろ?」

いや、分からん。

「君が普通に役を返してしまえば、役を持たなくなった君はこの国に居られなくなり、元の世界に帰ることも出来ず“消滅”する。君が自ら消えてくれるとは思わないし、なにより……何故か君にご執心の常盤が黙っていない。だから、この方法は不可能だ。かといって自動的に役を放棄することになる“元の世界に帰る”という選択肢も君には無い。この国に“白ウサギになる”為に来た君には帰るだけの理由が無いからだ。理由が無ければ、二つの平行線が交わることは無い。よって、君は帰れない」

うん、……うん。

「そうなれば、あとは一つだ。君を殺して、強制的にピーターを白ウサギに戻すしかない。白ウサギはこの国には無くてはならない役の一つだからな。今の白ウサギが消えれば自然と、その資格は相応しいものに返還される。それがもう一つの自動放棄の方法だ。つまり……ああ、そうだな、うん、どうか安らかに、死んでくれ」

なんてこと!!

目の前が今にも真っ暗になりそうだった。分かっても解らない彼の理屈は、わたしに対して一切の遠慮が無い。よし、ここで相互理解の基礎基本。―――もし自分が彼の立場だったなら、どう思っただろう。いやいやいや、いくら何でもここまできて人を気遣うなんて、できる訳ないでしょうが。そもそもこんな非道な行いをする彼を、人とは思えない!

薔薇の香りが纏わりついて、思わずむせ返る。蔓が足を取り、腕を取り、胸を締め付ける。棘が、皮膚を容赦なく破っていく。細い蔓のいくつかがシャツの裾から入り込んで腹を這っていたけれど、「きゃー、えっち」なんて言っていられる次元の話だったならどれだけ良かったか。だんだんと意識が朦朧としてきた。だめだ、だめだと分かっていても次第に瞼が世界を覆い隠していく。手放してしまえば、様々な苦しみから解放されるのだろう。けれど、そうしたら、大切な何かも同時に消えてなくなってしまう。―――ということを知りながらも、無情にもわたしの身体は楽な方を選んでしまうのだ。そうなれば、痛みなんてもういつの話しだったか分からない遠い話。ふわっとした、そんな素敵な無感覚の世界。

でも、走馬灯は流れてくれなかった。だから、大切な君との思い出を振り返ることもできないなんて。ね。酷い話。そうでしょう、ねえ、友よ。必死で思い浮かべた君の顔さえ、今は青褪めて見えるわ。



光の失われた少女の瞳と、ぐったり力の抜けた体。そしてそれに群がる花を見て、ジャックは耐えられず目を閉じた。 そして自身に言い聞かせる。
これで良かったんだ、と。
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