Act15.「スペードの館」



ジャックと名乗る男の屋敷は、間近で見ると相当な迫力があった。その圧倒的な大きさに、は思わず『お城みたい!』とはしゃいで駆け回りたくなる。これと比べてしまえば、自分の家は一体何に成り下がるのだろう。倉庫だろうか。
大勢の使用人に見守られて、ジャック、、常盤、ピーターという順に屋敷に足を踏み入れる。黄櫨は、付いてこなかった。街でのピーターと常盤の喧嘩が終わると、ジャックの誘いを無視して常盤と一言二言何かを話した後、来た道を引き返してしまったのだ。確かにあの家に誰も居ないのは無用心かもしれないが……黄櫨一人で留守番するということにどれだけの意味があるのだろう、とは思わずには居られない。少年は歳不相応にしっかりしていたが、本の虫である。例え侵入者があったとしても、気が付かないのではないだろうか。

(黄櫨くんの役割は、本当に、わたしを常盤さんの元に送り届けることだけだったんだろうな)
あんな幼い子に面倒を見てもらっているなんて不思議な気分だ。と、は思った。そして自分の信用の無さに、情けなくなる。それから、思うところは他にもあった。

……赴く場所が同じなら、常盤さんとわたしが一緒にあの家を出れば良かったんじゃないだろうか?そうすれば、黄櫨くんに手間を掛けさせることも無かった。……いや、やはり彼と二人だけの道中だなんて、耐えられない。重たい空気に押し潰されてしまうに違いない。相変わらず、彼は苦手だった。どうにも、彼との間には“ズレ”が生じるのだ。それはただのタイミングの問題だったりするのだけれど、人とのコミュニケーションの上でタイミングがどれほど重要なものなのか、今、わたしは痛感している。

例えば今、わたしが良く磨かれた窓ガラスに映る自分を見れば、すぐ後ろに映る彼とガラスの中で目が合う。そして特に意味も無くそこから視線を外した瞬間、彼はガラスの向こうで先程まで目が合っていた少女に微笑みかけるのだ。そしてわたしはそれを背中越しの雰囲気で感じ取っている。気まずいことこの上ない!何だこれ、コントか!

「まあ大したもてなしも出来ないが、くつろいでくれ」
そう言うジャックに通された客室は、広くて立派で、ほのかに薔薇の香りがした。皺一つ無いソファに、はそっと浅く腰かける。背筋を伸ばすに、ジャックは「緊張する必要はないぞ」と笑った。その笑顔に彼は良い人だと、は思った。

「よっこい、しょ。ん、じゃあ改めて自己紹介でもするか」
「あ、はい。えっと、です」
自己紹介といっても、に他に言えることはなかった。

「はい、どうも。俺はジャックだ。このスペードの館の主で、まあ、ここら一帯を取り仕切ったり、うーん……時々城に行って兵士達に剣を教えてみたり、してるな。そんなところか。一応騎士様、ってやつだ」
この館に足を踏み入れた時から気になってはいたが、ここでは壁や階段、そしてあらゆる家具にスペードのマークが刻まれている。スペードの館。つまり彼はスペードのジャック。は使用人の持ってきたティーカップの取っ手を指でなぞって、そこにもまたスペードを見つけた。

「なんだか凄そうですね」
「そんなことはないさ。で、あそこの二人と俺はまあ、友人ってとこだな。なあ、そうだろ?」
は隣に座る常盤と、その前で彼に睨まれながらも黙々とコーヒーを啜っているピーターを見る。二人はちらっとジャックを見て、それから、何も言わなかった。

「相変わらず酷い奴らだな。二人とも俺を友達だと思ったから頼ってきたんじゃないのか?」
大袈裟なリアクションで嘆くジャックのその言葉に、常盤は「まあ、そうかもしれない」と濁った返事をした。頼ったって、何をだろう?首を傾げるに、ジャックは「そろそろ本題に入ろうか」と言った。

「君をここに呼んだのは、俺が君に協力する為だ。常盤に頼まれてね。君は、アリスを捕まえなくちゃならないんだろう?どうすれば捕まえることが出来るのかは、知っているのか?」
木の幹に蜂蜜でも塗っておけばいい、とかでは無いのだろう。しかしはまだ、彼女がどんな人物でどこに居るのか、蜂蜜は好きなのか、何も知らなかった。ただ、大罪人と聞かされているだけ。は首を横に振る。

「いえ、知りません。第一、彼女がどんな人物なのかも分からないんです」
「彼女がどんな人物か、か……。それは俺にも分からないな。そもそも知っている奴なんて居ないんじゃないか?何しろ彼女はこの国の者の前に姿を現さないし、彼女と接触したことがある奴なんて、お目にかかったことが無い」
それは、以前常盤から聞かされた内容と同じだった。彼女がどんな人物で、どこにいて何をしているのか。何一つ分かることは無い。その事実を、彼らはさも当然のことのように言うのだ。新たな協力者に期待を寄せていたは、呆れ、落胆する。

「それでは、どうやって彼女の居場所を突き止めるんですか?」
「居場所を突き止める?そんなことをしてどうするつもりだ?」
質問を質問で返されてしまい、は呆気に取られた。

「……どうするって、居場所が分からないと捕まえられないでしょう?」
「分からないものは分からないだろ?居場所が分からなくたって、例えこの国のどこにも居なくたって、ただ君は彼女を“認識”すれば良い。それで、ゲームセットだ」
またそれか、とは思った。認識。耳に慣れれば慣れる程、よく分からなくなっていく単語だ。

「アリスを認識する為には、集めなくちゃならないものがある。それは、この国のあちこちに散らばる“アリスの記憶の欠片”だ」
「記憶の欠片?」
「ああ、そうだ。誰も知らないアリスを、唯一記憶しているものがある。それは、“この世界そのもの”だ。アリスの記憶の欠片は、この世界が持つ彼女の記憶で、それに触れることで彼女の存在に近付ける。姿や声が、分かるようになる」
「つまり……」
「つまり、君はこの国を歩き回って、その足跡を探さなくちゃならないってことだ。だから、常盤が俺に協力を求めてきたって訳さ。俺がついていれば大抵の場所は入れるようになる。なんたって俺は騎士様だからな」
そう言って胸を張る彼の動作は、やはり大袈裟なものだった。

アリスの足跡を辿り、世界の記憶を集める。……全く意味が分からないし、途方に暮れてしまう話だ。この国がどれくらい大きな国なのかは分からないが、国というんだからそれなりに大きいのだろう。その中を、歩き回る?何をあてにして?そもそも記憶の欠片とはどのような形をしている?……いまいち、想像がつかない。

「……それは、大変そうですね」
考え込むように俯きながら、はそう言った。それに対してジャックが何か返してくることは無い。はその静かな反応に何か違和感を感じて顔を上げるが、そこに居るジャックは相変わらず、緩い笑みを浮かべている。しかし、僅かに残る残像がそれとは全く別のものであったような気がして、は上手く笑みを返すことが出来なかった。

ふと横に視線を移せばピーターと目が合ったが、すぐに逸らされてしまう。……彼は、今のわたしが感じた小さな違和感に気付いただろうか。

、大丈夫だ。歩き回ると言ったって、全くあてが無いわけでもない。有名なところやアリスにまつわる話がある場所に行けば、すぐに見つかる。君は白ウサギなのだから」
常盤が励ますようにそう言った。彼は違和感など微塵も感じていないようで、やはりただの思い過ごしかとは忘れるようにする。

「この国も次第に小さくなっているしね」
今まで黙っていたピーターが、ぼそりと呟いた。がその言葉の意味を訊ねるより先に、常盤が彼に応じる。

「で、なんでお前はここに居るんだ?役目を放棄してからは、また森に引き篭ってたんじゃなかったのか?」
責めたてるような口調でそう言った彼はまだ怒りが収まっていないようで、あからさまに不機嫌だった。それに対して一切怯んだ様子の無いピーターに、もしかすると彼らは元からこういう関係なのかもしれないな、とは思ったが、実際の事は分からなかった。

「森、ね。その森が、遂に昨日消えたんだよ」
「消えたって、どういうこと?」
森というものはそんなに簡単に、消えたり消えなかったりするものだっただろうか。今度は訊きそびれない様、即座に問いかけたに、彼は短く「言葉通り」と答えた。これではまるで、わたしが理解力の乏しい子みたいじゃないか。はその顔に不満を浮かべる。

「森が消えたということは、アリスがその森のことを完全に忘れたということだ。消えてしまえばもう、その空間自体が元から無かったことになる。お前だって森に住んでいたということは覚えていても、もう、どんな森だったかは思い出せないだろう?」
まあ、ね。常盤の言葉にピーターが軽く頷く。は、ぞわりと嫌な感覚が全身を撫でていくのを感じた。

消えるって。思い出せないって。それって、どういうこと?つい数日前までは、もしかすると昨日森が消えるその瞬間まではそこが自分の帰る場所だったかもしれないのに、どんな場所だったのか、覚えていない?なんだ、それ。
には何よりも、それを平気な顔で話している人達が、信じられなかった。

彼の先程の“国が小さくなっている”という言葉もきっと、国の勢力が弱まっているというような話ではないのだろう。それが意味するのは、言葉通りだ。ああ、それは―――なんて恐ろしい。

「今回は結構ゆっくり消えていったみたいだよ。僕がこうやって森を出てくる暇があったんだから」
「そう、それで俺に伝書鳩を寄越したんだよな。“今から行く”の一言をくくりつけて」
「暫く住ませてもらおうと思って」
「酒の相手もして貰えるし、俺は一向に構わないがな」
歓迎するぜ。と、ジャックがピーターの肩をバシバシ叩く。ピーターは非常に鬱陶しそうにそれを払いのけた。常盤がそんな彼らに、あまり飲み過ぎるのはやめておけと釘を刺す。
は、戸惑いながら彼らを見ていた。

もうすぐ、自分も、友人も、家族も、皆纏めて消えてしまうかもしれないというのに、何故平気で居られるのだろうか。部外者であるわたしでさえ、こんなに焦りと恐怖を感じているというのに。



*



宵も深まった頃。は一人きり、ソファに沈んでいた。
あの後は、彼らと夕食を共にした。人と交流を深める上で、食事を共にすることは非常に手っ取り早く効果的な手段だ。しかしやはりには億劫で、落ち着かず、また意識は彼らから聞いたこの国の事に向いており、何を食べたか、何を話したかろくに覚えていない。ただ、豪勢であったことは確かだ。
食事が済むと、常盤とジャックは二人でどこかへ行ってしまった。その手にはこの国の地図や何冊かの本があり、難しい話をしそうな雰囲気だった。ピーターはこの屋敷にお世話になると言っていたから、きっと部屋の準備でもしているのだろう。やはり、どこかへ行ってしまっている。だから、は一人だ。
これからのことを相談するのなら、自分も常盤たちの話し合いに立ち会うべきなのではないか、とも思ったが、その常盤に客室でのんびり休んでいるようにと言われてしまったので仕方がない。相変わらず、常盤はがこの国のことを知るのをあまりよく思っていない様子だった。にはそれが不思議でならなかった。―――知ってはいけないことでも、あるのだろうか。

カツン。カツン。近付く足音に、は顔を上げる。
カチャ、とドアノブを回し入ってきたのは、常盤と一緒に居た筈のジャックだった。

「あれ?話し合い、終わったんですか?」
「いや、まあ、一旦休憩ってとこだ。ちょうどいいから、可愛らしい客人を庭にでも案内してさしあげようかと思ってな」
はちらりと、彼の歯がちゃんと歯茎にくっ付いたままかどうかを確認した。だって、こんなことがさらりと言えてしまうなんて、凄い。


「さあ、おいで」
スペードのジャックが笑う。は、呼ばれるままに彼について行った。 inserted by FC2 system