Act15.「深まる夜に」
夜が深まり、館の中には煙のような静けさが広がっていく。どこかで使用人達の立てる音や気配は感じられるが微かなものだ。誰もが息を潜めている重々しさがある。
ピーターもそれに倣い、そっとその部屋の前まで来ると、暫く扉の木目をじっと睨んだ。……それから敢えて適当に、雑に、数回ノックする。しかし返事はない。ピーターはわざと大きな溜息を吐くと、鍵のかかっていないドアを開けた。
どこも似た内装の客室。部屋の奥、窓の近くで、常盤は椅子に腰かけ腕組みをしている。カーテンの隙間から射しこむ清涼な月灯りが、彼の物思いに耽る横顔を照らしていた。
「何のためのノックだ」
呆れた声で言われ、ピーターは僅かに安堵する。どうやら無視を決め込む気ではないらしい。ピーターはふてぶてしく部屋に上がり込み、使われた様子のないベッドにドカッと腰を下ろした。
「まだ、怒ってる?」
その問いに、常盤はピーターを一瞥するが、何も言わない。否定ではなく肯定の無言である。
「僕には、君がどうして怒ってるのか分からない」
ピーターは彼のことを、比較的、割と、よく知っていると思っていた。……ピーターは常盤の昔と変わらない姿を静かに見つめる。時間が止まってしまった彼を見ていると、過去に戻ったみたいな不思議な気分になった。
――ピーターがまだ幼い少年だった頃、一時期だが、常盤と生活を共にしていたことがあった。この世界では、人は人から生まれるよりも、自然発生……世界から生み出されることの方が多い。そのように出現した者は、生まれた時から大人の姿をしていることもあれば、子供の姿をしていることもあり、ピーターの場合は後者だった。そして誕生したばかりの彼を保護したのが、常盤だ。
黄櫨や当時のピーターのように子供ながらにアリスネームを持つ者は、その力を悪用されかねない。悪意のない、同じキャラクターの名を冠する者の元で保護されるのが一番安全だ。常盤は慈愛に満ちた万人に優しい人物とは言えなかったが、少なくとも子供を危険な世界に放り出すほど冷酷ではなかった。神経質で、生真面目で、人とあまり関わりを持とうとしないが、身内にはどこか甘い。そんな男だ。
ピーターは元より彼に依存する気はなく、早々に自立して城で王に仕えるようになったが、それからも常盤や黄櫨との付き合いは続いている。互いによく知り、一定の信頼は築けていると思っていた。
だからこそ、今の彼に納得がいかない。今の彼はあの少女の所為で、まるで知らない他人の顔をしている。
「本当に、理解できないよ」
ピーターの知る限り、常盤はこの国の存亡に無関心だった筈なのだ。彼は自身や黄櫨に関わる目先の事柄には敏感だったが、虚無化には関与したがらなかった。ピーター自身も、そして不思議の国の多くの者も、世界の終焉をどこか本能的に受け入れているのである。
だから白ウサギの役目がどうだとか、それを誰がやるだとか、そういったことも彼の関心の外にあると思っていた。(……そしてそれ以上に、異性にも関心があるタイプではないと思っていた)
真面目な常盤なら、自分の家の近くに誰かが迷い込み、その者から何かしら問われれば最低限の説明はするだろう。だがそれだけだ。が非力な子供であったなら、彼の保護対象になり得るかもしれないが、彼女は子供ではない。何より異世界人という危険を孕んだ存在など、すぐに体よく追い払うだろうと、安心していた。
しかし、実際は違った。常盤は未だに彼女と行動を共にしており、傍から見ても並々ならぬ感情を抱いている。それがどういう類のものは分からないが……この国の行く末にさえ執着のない彼が、あの少女には執着している。
彼女に常盤の弱みを握ることのできる怜悧狡猾さがあるとは思えなかったが、それでも確実に、彼は彼女に狂わされているのだ。こうなることはピーターにとって、全くの想定外だった。
あの少女に入れ込むだけの何があるのかと、ピーターは問い質そうとしたが――口を開いたのは常盤が先だった。
「どうして、だったんだ」
常盤は深刻な面持ちでピーターを責める。ピーターは、常盤が彼女に好意的なら、彼女をこの世界に連れてきた自分は感謝されるべきなのではないかと思った。
「あの子が自ら望んだからだよ。この不思議の国に来ることを」
どのように異世界に行き、なぜ異世界の者を連れ帰り、自分の役を渡したのか。肝心な説明が全くないが、ピーターはそれを彼に話す気はなかった。
ピーターが異世界に赴いた理由、それは……彼が王からアリスを捕えるように命じられた直後、ある存在が接触してきたことにある。それは“時間くん”と呼ばれる、この世界の時間を司る特別な存在だ。
時間くんは時間を意のままに操り、時空間を歪めることができる強力な力を持っている。しかし気まぐれで我儘な人格故に、危険な存在だった。現に時間くんは“気に食わないから”といった理由で常盤の時間を止めてしまっている。(彼らの間に何があったのかは教えてもらってないけど……)
そんな時間くんが、ピーターに指示をしたのだ。アリスを捕えるには異世界の少女が必要だと。少女を連れてこなければ、身の回りの者の時間を狂わせると脅してまで――。
ピーターの身の回りで人質になり得る人物といえば常盤か黄櫨か、あと一、二名浮かぶ位だったがゼロではない。既に常盤の時間を止めている時間くんのことだ、それは単なる脅しではすまないだろう。よってピーターは行くしかなかった。時間くんの力で異世界に送られ、偶然、少女に追いかけられる。時間くんが思い描いた通り、事が進んだのだ。
だから『どうして』『何故』と問われれば『君たちが居たからだよ』と答えるほかないが、言う気にはなれない。こんな面倒な感情を押し付けられても迷惑だろう。……それに、重い役目を他人に押し付けることが出来て、多少ほっとしているのも事実だった。怠惰な自分が無責任に、ただ役を放棄しただけ。それでこの話は終えたかった。しかし常盤はそれを許さない。
「時間の差し金か」
何でも知っているような彼の目、その言葉に、ピーターは一瞬思考が止まる。……まさか自分は考えを垂れ流していたのだろうか。いや、そんな筈はない。ならどうして彼は時間くんの名を口にするのか。
ピーターの無言を、常盤は十分な回答として受け取る。
「異世界へ道を繋げることができる者など、限られているだろう。奴がそこまで力を付けているとは思わなかったが……」
迂闊だった、と小さくぼやく常盤が何を知っていて何を考えているのか、ピーターには分からない。
「時間はについて何か言っていたか? と接触は?」
「いや……」
ピーターは首を横に振った。常盤の真意が何であれ、彼がを案じているのは間違いなさそうだ。
「君がどうしてあの子に好意的なのかは分からないけど、それが本心なら……」
ピーターは少し躊躇ったが、常盤に先を促すよう睨まれて、諦めて続きを口にする。
「彼女をジャックに会わせるのは、やめておくべきだったと思うよ」
「どういうことだ?」
怪訝な顔をする常盤に、ピーターは……彼はやはりジャックの事情を知らなかったのだ、と腑に落ちた。
「ジャックは、異世界人を憎んでる」
実のところピーターにも、ジャックの憎しみがどの程度のものか、それによってに危険が及ぶことがあるかどうかは分からない。彼は私怨で馬鹿な真似をする男だろうか? だが常のジャックならまだしも、今のジャックなら分からない。
ジャックの青バラの件に関する城への報告は、不備が目に付いた。目撃者の個人情報が少なく、青バラと遭遇したその後についての詳細がない。違和感を抱いたピーターが実際に街で調査をすると、数人は未だに後遺症で寝込んでおり意識不明者も出ていた。
報告では、目撃者達は青バラと深く接触しておらず、精神的なショックから一時的な体調不良を訴える者がいる程度とのことだった。しかし実際は、幽霊騒ぎでは片付けられない大きな被害が出ている。このような状態ならもっと大事にして早急に手を打たねばならなかった筈だ。ジャックは、意図的にそれを避けているとしか思えない。
灯りも警備態勢も整えられたこの街で、何故青バラなどという時代錯誤な怪物が問題を引き起こしているのか。何故それを隠す必要があるのか。
きっと水面下で、何かが起きている。
あの貼り付けた胡散臭い笑みの下で、何かが蠢いている。
ピーターの言葉を理解した常盤は、顔色を変えて立ち上がった。の無事を確認しに行くのだろう。ピーターも重そうに腰を上げる。隣に立つと、目線の先に常盤のつむじが見え隠れした。……時間くんに嫌われて時間が止まったままの常盤。いつのまにか彼の背を越えてしまったが、自分の中の彼の存在は、昔から何も変わらない。親であり兄であり友であり、そのどれでもないのだった。
*
は寝るでも起きるでもなく、客室のベッドで横になっていた。重心に従って傾いた胃はようやく夕食を消化したのか、落ち着いてきている。はジャック達と共にした夕食を思い出した。
豪勢な食事と陳腐な雑談。ジャックは気取ったところはあるが、上から物を言うようなことはなく、話しやすい相手だった。そんな彼だからだろう。気難しい雰囲気のある常盤や不愛想なピーターとも、上手く接していた。
彼らには共通の世界でこれまで共に過ごしてきた時間がある分、自分だけが輪から外れていたと、は思う。決して彼らがにそう感じさせる言動をしたのではないが、は勝手に疎外感を抱いていた。寂しさとは違う、漂流感。一人浮き出た、異物である感覚。
だからだろうか。物語の展開に、頭が付いてきても心が付いてこない。この世界の危機について、アリスについて、青バラについて。自分がまだどこか遠巻きに、客観的に見ていることを自覚してしまう。彼らはそれに気付いているだろうか。気付いていたとしたら、より居場所がない。
コンコンと扉を叩く音に、はむくりと起き上がる。足音が全く聞こえなかった。誰だろう?
「俺だ、ジャックだ」
扉の向こうで低い声が名乗った。は「はい」と返事だけ先にして、少し身なりを整えてから、扉を開ける。(……用意された寝着に着替える前で、よかった)
「こんな夜更けに悪いな。もう寝るところだったか?」
「いえ、まだですが」
こんな夜遅くに一人で、何の用だろう? は視線で問いかける。
「折角だから、可愛らしい客人を庭にでも案内しようと思ってな。うちの庭はちょっとした自慢なんだが、明日はゆっくり見て回る余裕はないだろうし。恐ろしい花を見に行く前に、美しい花を愛でに行かないか?」
「真夜中のお散歩、ですね。楽しそう」
が思ったより乗り気で安心したのか、調子に乗ったのか、ジャックが恭しく手を差し伸べる。
「さあ、お手をどうぞ。君に素敵な夜を約束しよう」
彼の調子に大分慣れてきたは「はは」と受け流してその横を通り過ぎ、部屋を出る。取られなかった手は、元より取る気がなかったかのように、下ろされた。はくるりと振り返り「行きましょう」と無邪気な笑みを浮かべる。
ジャックはそんな彼女に、息苦しさを覚えた。
心の中で、暗く重たいものが逆巻いていく。全身の血が、ドロドロになっていく。
早く終わらせよう。
ジャックは彼女の小さな背中を、忌々し気に睨みつけた。