Act14.「ジャックの館」



 達は街外れにあるという、ジャックの館を目指して歩く。レンガ造りの家が隙間なく連立し、足元には石畳が続くこの街が、はとても好きだった。西洋っぽい文化の根付くこの国は『不思議の国のアリス』発祥のイギリスでもなければ、の知るどの国でもない。不思議の国の“トランプ王国”だ。

 この世界はひとまとめに“不思議の国”と呼ばれているが、それは国名では無くあくまで世界自体の通称である。実際にはその中にいくつかの国家が独立していた。が居るのは不思議の国の中で最も領土の大きい“トランプ王国”。穏やかな気候と自然に恵まれ、国土の半分を農作地が占める。人口約六千万人の、絶対君主制の国家だ。

 トランプ王国は王が治める領と、王が貸し貴族が治める領とで出来ている。が最初に出てきた森と常盤の家が建っている辺りは、ジャックの治める“イレヴンス領”の一部だった。各領地の面積は大小様々だが、大体は都道府県が一二個集まったくらいの規模だとは理解している。トランプ王国の外を含めても、不思議の国自体はそこまで広くない。そして不思議の国の外には、何もない。

 不思議の国は地図上で見ると海に浮かぶ丸い島国に見えるが、外界は海ではなく未観測の領域で“魔の地”と呼ばれていた。人々は魔の地を恐れ近付くことは無い。しかし時々、勇敢で無謀な冒険者が開拓を志すこともあるという。

 人々の生活の中には、ランプや馬車など古い時代を思わせるものがあるが、それは単なる様式美。文明レベルはかなり“現代的”である。電気、ガス、水道のインフラは充分に整っていた。外を歩いていると電柱の一本も無いが、電力線や通信線は地下に集約されているらしい。

 が何より不思議に思ったのは通貨だ。この国の通貨はなんと……“円”なのである。貨幣や硬貨の意匠は異なるが、価値もほぼ一致しているように思えた。国が違うどころか世界も違うというのに、一体どういうことなのか……その疑問に対する答えは、この世界では見つかりそうにない。


 ――イレヴンス領、領主館。街から歩いて半刻程のそこに辿り着いた時には、曖昧な夕空は完全に夜になっていた。道中ずっと見えていたその大きな建物は、近くで見ると迫力が違う。一行が近付くと使用人が恭しく門を開いた。

「ようこそ、俺の城へ」
 ジャックが胸に手を当て、仰々しくお辞儀して見せる。も冗談の分かる大人ぶって、見えないドレスの裾を摘まんでお辞儀を返した。

 大きな門を通ると、広い庭に迎えられる。花々の咲き誇る花壇、飛沫が煌めく噴水。その奥に聳える豪壮な構えの邸宅。それは近世ヨーロッパの城を思わせる優美さと、大使館のような厳かな雰囲気を兼ね備えていた。建物の後ろには森が鬱蒼と茂っている。……どこまで続いているのだろう。

 吹き抜けのエントランスホールを過ぎ、少し進んだ先の応接間は、まるで見せるために作られた芸術作品である。白い壁に浮かび上がる植物モチーフの繊細な柄。黒光りする床に、艶やかな赤いベルベッドの絨毯。四、五人は優に座れるだろうソファもベルベッドで、鈍い光沢を湛えていた。広い部屋。大きな家具。華美な装飾。落ち着かない薔薇の香り。素敵だけど寛ぐことは出来なさそうだ、とは思った。

 達が席に着き、使用人がお茶を出し終えたタイミングで、ジャックは改めて自分のことを話してくれる。

 ジャックはやはり、アリスネーム“ハートのジャック”のキャラクターだった。そして領主だけでなく、国王直轄の騎士団の団長を務めており、領地と王都で半々の生活をしているとのことだ。イレヴンス領だけでなく、王と王国全体を守るため、軍事力の強化に精を出している。自らが率いる騎士団だけでなく、トランプ兵の訓練も監修しているらしい。
 王城に出向くことが多いため、そこで働くピーターとの接点は少なくないようだ。ジャック曰く二人は友人だというが……ピーターは肯定も否定もしなかった。

 騎士団の拠点でもあるイレヴンス領は警備が堅く、治安の良い平和な領だが、ここ最近不穏な噂が蔓延しているという。その噂が“青い幽霊を見た”というものだった。

「ユウレイ……?」
 は何とも言えない顔で、その胡乱な存在を口にする。幽霊。死者の霊魂の姿。居ないとも言い切れないが、信じているかと言うと、それとも違った。彼らは本気で幽霊騒ぎに向き合っているのだろうか? それとも不思議の国では幽霊の存在が当たり前なのだろうか?

「幽霊に見えたというだけで、その正体は別物だ」
 常盤は手に持っていた一冊の本を開き、あるページをに見せる。その紙面には、吸い込まれそうな深い青がぼやけていた。絵の具が落ちて染みになってしまったみたいに、点々と群れなす青い丸。その横には『闇に咲く吸魂花 青バラ』と記されている。

 ……バラ? 目を細めれば、確かに群生する薔薇に見えなくはないが、図説にしては抽象的すぎる絵だった。よく分からない曖昧な姿と、字面の不穏さが、まさに幽霊の如き不気味さを醸し出している。
「幽霊の正体はこれだ」と常盤は言った。

 不思議の国に咲く青バラは、正確にはバラではない。
 人間の恐怖や悲しみを糧に増殖する危険な存在で、捕えた対象の負の感情を呼び起こし、吸い続けるという。吸われた人間は精力を失い、短時間で過度の疲労状態に陥り、長時間で抜け殻と化す。過去には青バラの大群に襲われ、生きる気力を失って命を落とした者も居るそうだ。

 暗闇にしか咲くことのできない生態と、近付いた者には恐怖を感じる姿に見えてしまうため、その真の姿は記録に残っていない。しかし姿を変える前は青っぽく見えたという目撃証言と、人間を捕える時に植物の蔓のようなもので巻きつくこと、捕えられた人間の体に棘で刺されたみたいな痕が見られたことから、青バラと名付けられたらしい。

 それだけ聞くと、幽霊よりも実害のある恐ろしい怪物だったが、非常に繊細で、弱点である光に照らされると消えてしまうため、灯りが整備された人の街では大した脅威ではない。明るい月夜にも出てこないという。
 青バラはその弱さ故に自然に淘汰されていき、更に国に危険植物として指定されると駆除も進み、今となっては絶滅した過去の存在である。――とのことだった。

 ジャックが「懐かしいな」と顎を撫でる。

「昔は闇市で、観賞用に取引されていたこともあったが……何しろ餌が人間だからなあ。厳しく取り締まられて、今はもうお目に掛かれない幻の花だ」
「でも……今回目撃されたということは、まだ存在していたということなんですよね?」
「ま、そういうことだな。な、常盤」
「ああ。目撃情報から考えてほぼ間違いない。目撃されたのは毎回夜で、場所は外灯や月明りの届かない路地裏、地下水路の入口付近に集中している。恐らく青バラが、地下で発生しているんだろう」
 はなるほど、と頷きながら……それはアリスと何ら関係のある異変なのだろうか? と疑問に思った。常盤はそれを察して、説明する。

「青バラだけでなく、絶滅した筈の動植物が突如現れたり、滅多に姿を見せない妖精、魔物が人の居住地に踏み入ってくることは、アリスがバックグラウンドに介入した際に起きがちな分かりやすい現象の一つだ。世界を書き換えることで、生態系に影響が出るんだろう」
「妖精……魔物……」
 幽霊どころじゃないな、この世界は。

 ……バックグラウンド。この世界を成り立たせている裏側のプログラム世界。そこに手を加えると、世界を書き換えることができるという。アリスはその世界にアクセスして、世界の消去を進めているという話だった。ただ消去するだけでなく、他に影響が出てしまうというのは、アリスが杜撰なのかプログラムが複雑過ぎるのか。

「つまり、地下水路に行けば何かアリスの痕跡が見つかるかもしれない、ということですね」
 の言葉に、常盤は「可能性としては」とだけ答えた。他に手立てがないなら、少しの可能性でも積極的にあたっていくべきだろう。

「地下水路にも灯りはあるが……念のため、夜が明けてから向かおう。水路にはいくつも出入口がある。夕方なら地上から光が入ってくるから、いざという時に逃げやすい」
 常盤の提案に、は頷く。知らないことが多過ぎるこの世界では、素直に判断を委ねておくべきだろう。ジャックは流石領主といったところか、複雑な水路を全て把握しているらしく、自ら案内してくれると言った。ピーターは一歩引いたところで何も言わずに聞いている……聞いているように見えるが、聞いていないのかもしれない。はそっと彼を窺って、軽く睨まれ、慌てて逸らした。

 戦いは、明日の夜明け。
 今晩は景気付けに派手にやろう! とジャックは酒をあおる手振りをしたが、はまだ飲酒できる年齢ではないし、他二人はとても乗り気には見えない。しかしそれに構わず、使用人達はジャックの指示を受けて準備にかかる。

 あれよあれよという間に、豪勢なディナーのはじまりだ。

「今晩くらいは色々忘れて、どうか楽しんでいってくれ」

 ワイングラスを掲げて、ジャックはに「乾杯」とわらいかけた。 inserted by FC2 system