Act14.「暮れの街」



暮れの街は、家々から漂う暖かな夕食の香りに包まれていた。その所為か帰路につく人々も早足になりがちである。その中で、特に急かされることもなくのんびりと歩いている男は、どうにも人の目を引いた。白い髪に血の様な赤い瞳、そしてやはり何と言っても天に向かってぴんと立つ二本の長い耳は、誰もが目を留めずにはいられないのだろう。しかし街の人々の殆どが彼の事を知っており、眺める対象としてはあまりに畏れ多いと理解していた。その為、周囲の空気は独特の緊張感を含んでいる。
彼自身はもうすっかりその感覚に慣れ、親しみさえ感じているものの、それは今の自分には相応しくないものだと知っていた。何故なら彼はもう、畏怖を向けられるような存在ではない。王の補佐であるという立場は一線を引くべきものかもしれないが、“白ウサギ”という異端な枠から抜け出た彼は、世界に関与するような大それた力を失っているのだ。
ピーターはやれやれと肩を竦めた。

彼が国王から任務を命じられて、それをある少女に押し付けてから、もう数回夜と夕方が入れ替わっていた。押し付けた、という表現ではさも彼だけが悪いようだが、しかし、彼は本来成すべき自分の役割を遂げただけとも言える。白ウサギの役割は、ただの“案内人”。好奇心旺盛で後先を省みない少女を不思議の国へ招いた以上、他に何をすることがあるというのだろうか。逃げるのならばまだしも、追いかけるなんてもっての他。それは管轄外の話というもの。だから彼は最初から、追いかけるのが好きそうな誰かに全てを任せてしまおうと決めていた。彼にしか出来ないことも、彼がしなくてはいけないことも、全てそこまで。新しい白ウサギの少女は多少疑念の残る不思議な娘だったが、その分この世界に早く馴染んでいくだろうし、割と上手くいくかもしれない。

彼が彼女を選んだのは、そこに彼女が居て彼女が彼を追いかけてしまったからという本当に偶然のことであったが、この世界に果たして偶然などというものがあるのかどうかは定かではない。いっそのこと全てが必然だと言われた方が人々は納得できるのではないだろうか。

ピーターは夕空を見上げて、溜息を吐いた。橙から黄金に輝く空とは裏腹に、気分は晴れない。
再び彼が地上に目を戻したとき、人々の波の間で視線を逸らすことなく自分を見ている少女に気付き、既視感を覚えたような気がしたのだが、それはデジャヴでもなんでもないだろう。前世でもなんでもない、たった数日前の出来事なのだから。

「お久しぶりですね。……その節はどうも、お世話になりました」
記憶の中にある少女よりも大分はっきりとした声と口ぶりで、友好的とは言い難い表情を携えて歩み寄ってくる彼女は、面倒事の再来にしか思えない。そのまま無視して雑踏に紛れてしまっても良かったのだが、近付くにつれてわざとらしくニッコリ微笑む彼女に、そのまま立ち去ってしまうことが悔しく思えて、結局顔を合わせることとなる。ああ、今はもう自分の中にある感情さえ面倒だ、と、ピーターはうんざりした。



*



がこの国に来てからというもの、既に5日が経過していた。その間は黄櫨からこの国の話を聞いたり、本を読んで学んだり、少しだけ街に出て買い物をしたりという日々を送っていた。
この国が無くなってしまうかもしれないというのに随分と悠長なものだ。と、一番に感じていたのは彼女自身だ。しかしこの数日間、彼女の役目に最後まで付き合ってくれると言った常盤は殆ど外出していて滅多に顔を合わせることは無く、またにそのように過ごしている様に言ったのも彼なのだから、勿論黄櫨は彼女が勝手な真似をするに至るだけの情報を与えることはない。で、あるから、にはどうすることもできなかったのだ。
ただ、日に日に新しい部屋には彼女の私物が増えていき、不思議でならなかったこと達が日常の一部に溶け込んでいく。
当初はどこにも無いことが不満で探して回った鏡は、ようやく見つけた姿見に映る自分が自分を指差し大笑いしている様を見てぞっとしてからというもの、今は諦めてよく磨かれた金属の板を使わせてもらっているし、ガラスの写真立ての人魚は夜が終わると泡になって消えてしまうからタオルを敷いて置いた方がいいことも分かった。朝も昼も無ければ無いで、さほど困らない。植物は月の光で光合成を行う。も、夕陽を朝陽代わりに浴びる。慣れとは、本当に恐ろしいものだった。

しかし物語には展開がなくてはならない。100時間近く経ってようやく今日、それが兆しを見せる。夕方“六時頃”に目を覚ませば、何故か人魚は泡になっておらず、それどころか『もうあんな人の為なんかに、泡になってたまるもんですか!』と、よく分からない憤りの歌を歌っていたし、お茶会のスコーンは皿の上で大人しくしていた。これは何か起こるな、と思えばどんぴしゃり。
夜が訪れる前までにとある場所にを連れてくるように、と言いつけられたらしい真面目な顔の黄櫨(つまり、彼の通常だが)に連れられ、はここ数日でも2回程気分転換に足を運んだ近くの街に訪れていた。とある場所というのはこの街の中心にある大きな屋敷だというのだが……。そこに二人で向かっている途中、彼女は雑踏の中に白い頭を見つけて、足を止める。

赤い瞳と目が合えば、ああ、デジャヴ……じゃない。言葉は正しく使いたいものだ。



「お久しぶりですね。……その節はどうも、お世話になりました」
いくら何でもこんな人通りの多い場所で発砲なんて真似はしないだろうと踏んで、は挨拶を返さない失礼なその男に近付いた。目が合ったことに気付かないフリをして、素知らぬ顔で黄櫨に付いて行っていた方が賢明だったかもしれない。しかし、突発的な自身の行動の所為で、少年の姿は既に見失ってしまっていた。後に引けないは、せめて笑顔を装備していこうと思った。

「ああ、うん、どうも。じゃあ僕急いでるからこれで」
「白ウサギでも無いのに、一体何に急がなくちゃいけないの?」
沈黙。は面白いくらいに勝手に言葉を吐き出す口が、憎らしかった。口は災いの下。雉も鳴かねば撃たれまい。三寸の舌に五尺の身を亡ぼす。それはまさに、自分の事だ。
彼を見かけた時は、ただもっと詳しく白ウサギの役割についてや、アリスという少女のことを尋ねてみようと思っただけなのに、ある程度の距離で顔を合わせたらやけに喧嘩腰な自分が現れてしまう。無論、彼はそれに顔を顰めた。

森での兵士たちとの一件でが彼に抱いていた恐怖感は、こうして目を見て言葉を交わしていると嘘みたいに薄れていった。森の暗闇の中では酷く恐ろしく見えた彼の赤い瞳も、今は夕陽が混じって柔らかい色をしている。ああ、思えば一番怖かったのはわたしに刃先を向けていたあの兵士だし、彼はその状況から救い出してくれたようなものじゃないか。それに、とんでもなく大きな仕事を押し付けられたのだって、元はといえば見ず知らずのウサギに付いていった無用心なわたしの自業自得なのだ。

そこで、の思考を中断させるようにピーターが口を開いた。

「……それで?用が無いんだったら、僕はもう行くけど」
「用があったら行かないで居てくれるんですね?……いや違う。そうじゃなくて」
また余計なことを。しかし、その割に空気は緩かった。それは、彼が一々わたしの言葉を本気にして買わないからだろう。そして、わたしも本気で突っかかっている訳ではないから、だ。わたしはここ最近、会ったばかりのよく知らない人達に優しくされ過ぎたから、優しくないのが新鮮で、嬉しいのかもしれない。……ああ、きっとそうだ。すごく、納得。これが、普通。(ではないかもしれない)

「色々と、聞きたい事があったり、した、ん、だけど……な」

人と人と人と人。その間から波を掻き分けて、真っ直ぐこちらに向かって来る人物が居た。その人を見ては少し驚き、ピーターは「うわあ」と嫌そうな声を出す。けれど嫌がっているというよりは、意外にも困っているような顔をしていた。
何故彼がこんなところに居るのだろうと首を傾げるは、その人物がある一定の距離まで近付いた所で、不穏な空気を感じ取る。しかし、察した所で何が出来る訳でも無い。
二人に近づいた彼―――常盤は、そのままいきなりピーターに殴りかかっていった。

空を切る音が、すぐ近くを通り過ぎる。はとっさに目を瞑るが、いつまでたっても打撃の音は……しない。は目を開けた。

常盤の拳は、気怠そうな表情を崩さないピーターの手に、しっかりと受け止められている。そんな行動が更に気に障ったのか、常盤は酷く苛々しながら拳を引っ込めて、その手で彼の胸倉に掴みかかる。状況把握の出来ていないはおろおろすることすら出来ず、ただ口をポカンと開けてその様子を見ていた。
……とりあえず、彼が素直に殴られておけば事に収拾が付いたような気がしなくも無いのだけれど、どうだろうね、と背後の少年に意見を求めれば、自分の存在に気付いていたことや突然話を振られたことにも驚かずに、黄櫨が静かに答える。

「僕もそう思うよ。それと、突然居なくなるのはやめて欲しいとも思う」
「ごめんね」
謝りながら黄櫨の頭を撫でる。すると黄櫨は、薄っすらと困った表情を浮かべた。ああ、その顔はいつもより少しだけ幼い。

「お前は、自分が何をしたか分かっているのか?」
常盤の低く掠れる声がピーターを責め立てる。少し離れた場所からその様子を静観すると黄櫨は完全に蚊帳の外で、彼らとの温度差はあまりにも大きかった。否、正確には彼との温度差だ。熱くなっているのは常盤唯一人で、彼を憤らせている男はといえば胸倉を掴まれながらも飄々と平気な顔をしているのだから。―――ただ、大分面倒臭そうではあるが。

「何が?」
「何が、だと?ふざけるな!お前はなんでいつもそうなんだ!いつも自分勝手だし、何でも人に押し付けていくし、それでいて自分は何も知らないとでも言いたげな顔で!!」
「ああ、そうだね。それで、何で怒ってるの」
「……よくも抜け抜けと、そんな事が……」
人々は騒ぎに何事かと足を止め、騒動の当事者達を見るなり、素知らぬ顔でそそくさと立ち去っていく。賢い人ならば、そんな人々の様子を見るだけで近付いてはいけないのだと察して、道を変える。人々の流れは今も澱みない。突然彼ら二人の周りにだけ見えない壁が円状に出現したかのような、異様な光景だった。

「お前はいつもの自分勝手で、何も知らない彼女をこの世界に連れ込んだんだろう!一体どうするつもりなんだ、そのことについて、どう弁明するつもりなんだ!」
そう言った常盤に、は頭を抱えたい衝動に駆られる。彼女、というのは間違いなく自分のことだろう。そして、常盤に『連れて来られた』と説明したのも、自分だ。それは間違いではないけれど、多少ニュアンスに問題があるように思える。
は二人の方に一歩近づき、躊躇いがちに口を開いた。

「あの……すみません。本当はわたしも悪かったんです。最初にその人に付いて行ったのはわたしの方だし、それに、不思議の国って、やっぱり少し憧れがあったし……」
語尾が小さく消え入りそうになる。言い訳じみた自身の言葉の終着点が見つからない。“だから、わたしの為に争わないで!”なんて言える気もしないが、まさにそんな気分だ。
常盤は口を挟んだの方に振り返る。どうやらちゃんと彼女の存在には気付いていたらしい。彼は少し雰囲気を和らげて、言った。

「そんなことは分かっている。白ウサギは追いかけるものだからな。ただ、こいつは逃げ切ろうと思えばできた筈だ。そうだろう」
「どうだろう」
そうだろう。どうだろう。ピーターが常盤の口調を真似して言うものだから、すごく面白くなってしまって、けど笑う訳にもいかず無表情のまま体を小刻みに揺らすを、黄櫨が不可解なものを見る目で見た。一方、常盤は苛々を募らせるばかりである。

「どうだろう、じゃないだろう!にとんでもない仕事を押し付けておいて、お前は、」

「ご両人、そこまでだ」

聞いた事のない声が常盤の声を遮る。流れる人々の中で唯一、そこに円い壁など無いのだと知った男が薄く笑っていた。その人の身に纏う軍服に、造型は全く違えどもトランプ柄の兵士達を思い出し、は彼を凝視してしまう。そうしていると、素早く視線に気付いたその男がの傍までやってきた。艶やかな黒髪に、深海に沈んだ二つのガラス玉。しかしその黒曜石のような気品を、顎の無精髭が胡散臭いものにしていた。それと、にやりという締りの無い笑みが。

「やあ、どうも。君が新しい白ウサギの子だろ?」
「こんにちは。です。どうもそのようです……失礼ですが、あなたは?」
「俺はジャック。君の話は常盤から聞いている。君がこれから向かおうとしていたのは俺のところでね、到着の遅い客人を迎えに来たって訳さ。あいつと一緒に」
そう言った彼の親指が、グッと常盤を指し示す。到着が遅いって……夜までに行けば良いんじゃなかったのか、とが思ったその瞬間、空が闇に堕ちた。曖昧だった夕闇で、一方が完全勝利を収めたのだ。はすみません、と小さく頭を下げた。
この人があの大きなお屋敷の持ち主ということは―――実は凄く偉い人なのではないだろうか。という考えがふとの頭をよぎるが、ピーターと常盤の様子からはそれが窺い知れず、また彼自身もそのような雰囲気を纏っていなかった為に、今のところこれ以上態度を改める必要は無さそうだと判断する。

「ねえ、そろそろ放してくれる?襟が伸びるんだけど」
「ああ、伸びれば良いんだお前なんか!」
「ちょっとお前ら、俺を無視しないでくれるか?」

そろそろ我慢しなくてもいいだろうと思い、はようやく堪えていた笑いを溢した。それに気付いた常盤が、恥ずかしそうにそっぽを向く。ピーターはといえば、開放された襟の皺を気にしている。ジャックがやれやれと肩を竦めた。


「さあ、とにかく皆、俺のところへ来ないか?話はそれからだ」 inserted by FC2 system