Act12.「プロローグのエピローグ」



黄櫨が暖かな談話室に戻ると、置きっぱなしにしていった本が常盤の手の中でパラパラと羽ばたきしていた。

「何のお話かと思えば、字は字でも数字が羅列しているだけじゃないか」
本当にお前は可愛くないな。と言って、常盤はその本を閉じて黄櫨に放って寄越す。特に気に障った様子も無い黄櫨は、受け取ったその本を横腹に抱えて彼の正面のソファに腰掛ける。さっきまでそこには少女が座っていたが、今はもう温もりの名残さえ感じられない。

は、どうだった?」
「どうもなにも、優しくして逆に警戒されるなんてね。心外でしょ」
黄櫨は気に入らない、というように溜息を吐いたが、相変わらず表情からは何も読み取ることが出来ない。常盤は苦笑する。

「いいじゃないか、それがまともな反応だ。それくらいの警戒心は持っていてもらわなければ、心配で気が狂ってしまう」
「……最初は素直で良い子だと思ったよ。でも話している内に、あの子が笑顔を使い分けるのを見て、それがあの子の本性だと気付いた。柔らかい印象だったのに妙に気が強そうだし、捻くれてるし、本当に可愛くない。僕は好きになれないかも」
黄櫨の言葉に、森で遭遇してから暫くの間の彼女の様子を思い返す。あれは、非常に彼女らしからぬ様子だった。恐らく突然のことに思考が付いて行かず、混乱して、自分を失いかけていたのだろう。まだ認識の重要さなども知らなかった彼女は、危うい存在になりかけていた。そういう時の一時的な対処法としては、温かいものや味の濃いものが効果的である。それを知っていた常盤は、彼女に特別濃厚なココアを振るまい、暖かさと過ぎた甘さは、彼の期待通り彼女の意識を鮮明にしてくれた。そしてそれから少しずつ、らしさを取り戻していった。
そのらしさが、黄櫨が非難する彼女の本性である。

「珍しいな、お前が他人にそんなことを言うなんて。そろそろ異性に興味を持ち始める年頃か?」
「それは、常盤よりはそういうことに興味あるかもしれないけどさ。そんなんじゃなくて、ただどんな子なのか気になってただけだよ。いつも君の話に出てくる、君しか知らない女の子のことがね」
「……そんなに話していないだろう?」
常盤は頭を掻きながら、少し居心地が悪そうにしている。黄櫨はそんな彼に、自覚が無いだけだよ、と言った。まあ、僕以外には話してないんだろうけどね、とも。

「でも、最初は本当に可愛いと思ったんだ。常盤と僕のやりとりを見て、笑ったでしょあの子。ずっとああしていればいいのに」
「それをお前が言うのか」
「だって、」
淡々とした表情で文句を述べる黄櫨を、常盤が鼻でわらった。

「理由もなく四六時中ヘラヘラしているような人間を想像してみろ。気持ち悪いだけだろう」
何を考えているのか分かったものじゃない。と言った常盤に、黄櫨は僅かに表情を崩して確かに笑う。

「君って趣味悪いよ」
「それでいいんだ。彼女の良さが誰にでも分かってしまったら、それこそ安心していられない」
「僕は、なんでが君の事をまともだなんていうのか分からないよ」
黄櫨が頭をソファに凭れさせて、一層体を沈み込ませる。なんとなく、がそうしていたように部屋全体を見回してみたが、見慣れた光景は何も面白くない。

「そういえばあの子、お腹空いてるんじゃないの。何か持って行った方がいいんじゃない?」
「お前、言う割にを気にしているんだな」
「……そんな風に見える?」
ああ、と短く肯定した常盤に、黄櫨はつまらなそうに「ふうん」と言った。常盤ははぐらかしているようにも見える彼をひとしきり面白そうに眺めた後で、ようやく彼の提案に返事をした。

「今夜は行かないほうがいい。今の彼女には、何よりも休息が必要だろう」
常盤の言葉に、黄櫨は常より淡々とした口調で「そう」と短く答えると、立ち上がってマフラーを巻き直した。

「また今日も、寝ずに図書館に篭るのか」
「うん、眠くないからね。第一、眠っている時間が勿体無い」
全くお前は、と常盤が何かを言い始める前に、黄櫨は素早く部屋を後にしていた。彼はやれやれ、と肩を竦める。廊下に響いていた小さな足音が消えると、暖炉で火が燃える音が、静かな部屋の唯一の音になった。ふと、テーブルの上にと黄櫨が使っていたカップが並んで置いてあるのを見て、常盤は少しだけ気落ちする。ああ、何故は、彼女を良く知り、本当に大切に思っている自分よりも、彼女のことを何一つ理解していない黄櫨の方に警戒を解き、心を開いているのだろう。

(やはり、子供というのは役得なのだろうな)
常盤は、天井の向こうの彼女を見るように、上を見上げた。彼女は、もう眠ってしまっただろうか?彼女の事を考えると、今、同じ空間に彼女が居るということが信じられなくなってくる。許されるならば、その寝顔を確認しに行きたい位だ。常盤は自身の感情に、自嘲的な笑みを浮かべた。

夢でも幻でもない。本物の彼女が、ここに居る。それは、とある事情により恐れていたことで、あってはならない展開だった。喜ぶなんてもっての外。しかし、今の自分の中にはそんな許されざる感情ばかりがこみ上げてくる。

。心地よい声で紡がれる、穏やかな調子の言葉。思慮深そうな深い瞳。その身に纏う、人を寄せ付けない独自の雰囲気。それらは昔と変わらず、彼女が確かに彼女であると物語っていた。それに、どうしようもなく歓喜する。

しかし、変わった部分もあった。
少女は、随分と女性らしくなっていた。

草むらで彼女の姿を見つけた時は、本当に心臓が止まる思いだった。様々な感情が瞬間的に噴出したが、何よりも最初に感じたことは、「きれいになった」ということだった。
艶やかな髪。落ち着きを増した表情。考えごとをするときに、伏せられる目。睫がそこに落とす影。品のよい形の唇。華奢な肩。頼りない細い手首。冷たくなめらかな、手。

常盤は自分の手を見た。彼女の細く小さく冷たい手が、確かにこの中に存在していたのだ。

姿。声。匂い。体温。
彼女の存在を確認する度、どうしようもなく高揚する気持ちを抑えられない。

彼女の存在を噛みしめる。

彼女は、ここにいる。
彼女は、帰ってきた。
それは忌避すべき、不幸な展開で……どうしようもなく、幸福なことだった。

これからどうなるのか。それを考えると心配ばかりだが、彼女だけは守らなければならない。何があろうと、それだけは揺るがない。



願わくば、彼女が何も知らないまま、全てを忘れて元の世界へ帰れるように。 inserted by FC2 system