Act11.「平行線上の君」



黄櫨が去って一人になると、はどっと疲れが圧し掛かってくるのを感じた。起きた後のことなど考えず、何もかも忘れてベッドに飛び込みたい。しかし、彼女はそこまで迂闊になりきれる性格ではなかった。とりあえず部屋全体を見回し、窓とドアの施錠を確認する。どこにも誰も潜んでいない。誰かが突然侵入してくることもない。ここがプライベートな空間であることを知ると、ようやく一息ついた。
それから少し抵抗はあったが、皺にならないように制服を脱いで、下着の上からカーディガンを羽織った。脱いだ制服は空のクローゼットにしまわせてもらう。ボロボロの靴下を脱いでベッドにあがると、その柔らかな感触を確かめるように、そっと横になった。

横になると、胃がぐるぐると嫌な音を立てる。学校で昼食をとって久しいというのに一切の空腹を感じないのは、特異な状況と、濃すぎるココアのせいだ。監視の下、慣れない飲み物を入れられた体は、いつもとどこか違う。重たい。気持ち悪い。胸焼けがする。
の脳裏に“ヨモツヘグイ”という言葉が過った。
異界の飲食物を取り込むことにより、体の中が組み変わっていくような感覚。あながち間違いではないのかもしれない。濃く温かなココアを口にすることで意識が鮮明になり、この世界への見方が変わったような気もしていた。絵本の中の夢の世界。遠い、朧な存在が、一気に現実味を帯びたのだ。

ここは不思議の国だけれど、気の抜けない現実。そう、心しておくべきだろう。

は背中を丸めて膝を抱き、瞼を下した。部屋はしんと静まり返っており、それが今は逆にうるさい。疲れているのに、思考が止まらない。自分の声が、鳴り止まない。

(……わたしは、ずっと願っていた)
自分の知らない、どこか別の世界があれば良いと。この目で、この足で確かめたいと。そして、それは叶った。遂に、描いていた夢が現実になった。心配もあるが、それ以上に好奇心もある。眠りから覚めて疲れが取れれば、それは一層増すだろう。しかし、手放しで喜ぶことはできなかった。
何故なら、わたしはこの世界で初めて、人が人の命を奪う場面に立ち会ってしまったからだ。初めて、殺されそうになったからだ。あの時あの状況で取り乱さずにいられたのは、突然のことに実感が湧かなかったからに過ぎない。あの時あの場所に居た誰もが、その気になればわたしを殺せて、わたしに身を守る術など無かった。わたしは異世界から来た勇者でもなんでもない。ただの非力な少女なのだ。その状況が、今ではあまりにも恐ろしい。

ただ、どんなに恐ろしいことだったとしてもあれはもう過ぎたことで、今のわたしはもう、出会ったばかりの澄んだ瞳をした少年が言うには“絶対に信用の出来る相手”と一緒に居るらしいのだから、安心していいのかもしれない。

そうだ、わたしは運が良い。無条件に優しい人が居て、わたしが無事に帰れるまで付き合ってくれるというのだから、理不尽にしか思えない物語にもちゃんとご都合主義が搭載されている。望んだ形とは少し違ったけれど、ここも間違いなく不思議の国だというのだし、世界を救うなんてちょっとカッコイイ気がしなくもない。
ある日突然、全く知らない世界へ飛び込んで、ちょっと変わった人達と知り合いになって……わたしを中心に世界が回る。わたしの手で物語が進んでいく。児童向け冒険物語の主人公になった気分だ。

「なんて言ったら、きっと紫には怒られるんだろうな」
既に懐かしく感じる友人の名前を口にすると、は心が落ち着くのを感じた。
紫がもし、この世界に一緒に来ていたら……と想像する。

紫は意外と怖がりだ。強がって入ったお化け屋敷も、すぐに全速力で引き返すような怖がりだ。だからきっと、森であんなに大勢に囲まれて刃物なんて向けられたら、確実に泣き出すだろう。いや、混乱してヒステリックに怒り出すかもしれない。そんな紫が居たならば、わたしはちょっとは格好良く出来たのではないだろうか。銃声が鳴ったら咄嗟に彼女の耳を塞いであげて、ピーターに置いてけぼりにされたって、今夜は野宿だ!なんて明るく言ってのけることが出来たかもしれない。

今ここに彼女が居たならば、とても心強かっただろう。けれど、彼女がここに居なくて良かったと、心から思っていた。 こんなに怖い目に遭わなくて、良かったと。

そもそも、不思議の国と紫は対極に位置する存在だ。
ワンダーワールドに彼女は居ない。彼女だけは、絶対にここには居ない。居る訳が無い。普段は鬱陶しく感じていた“夢に否定的な紫”が、今では何よりも安心した。

ああ、良かった。ここに、君は居ない。

(良かった。本当に、良かった。よかった、よかった)
無意味な安堵の言葉が、脳内を巡る。睡魔に溶かされかけた思考はまとまらず、どこか奇妙で不恰好で、熱病の時の悪夢のようだ。自身を蝕む仄暗い眠気に、はようやく意識を手放した。
そして、夢を見た。



、あなた泣いたときの顔すっごく面白いんだから、私以外には見せちゃ駄目よ!一人で泣いても駄目、勿体無いんだから。泣きたくなったら私を笑わせに来てよね!』

クスクスと紫が笑う。泣きじゃくっていた幼いわたしもそんな彼女に呆れて、遂には一緒に笑い出す。随分と懐かしい夢だが、いつのことだっただろうか。何故わたしは泣いていたのだろうか。

『やくそく、やぶってごめんね』
今のわたしは泣いてなどいない。だからそれは、彼女のその言葉に対してのものではない。きっと、もっと何か、大切なことに対してだ。

わたしの知らないわたしが、何かをごめんねと謝った。 inserted by FC2 system