Act10.「偏屈少女」



知らない環境と、唐突な展開。今のの疲労を察することは、誰であっても容易に出来ただろう。疲れた顔のに、常盤は「今晩はもう休むように」と言い、黄櫨が部屋への案内を買って出た。―――とても買って出たとは思えないような顔で。

はこれ以上彼の気に触れないよう、できるだけ静かに黄櫨の後ろをついて歩く。
少年の背中は小さく細い。彼を包むニットのカーディガンは綿毛のようで、その後ろ姿は吹けば飛んでいってしまいそうに感じられたが、軽やかでありながら、その足取りはどこまでもしっかりしていた。それに比べ、の足取りは心許ない。靴を履かずに森の中を歩き回った彼女の足は、地を踏む度に響くような痛みを生むのだ。は、なるべく鋭い痛みが走らないように慎重に、それでも彼に置いていかれないように、床を踏んで、足を前に押し出してを繰り返す。
そんな彼女の様子に敏い少年が気が付かない筈は無かったが、彼は何も言わず、振り返ることさえしなかった。

無言のまま二階に上がると、黄櫨の足は一つの扉の前で止まった。扉は木製で、珈琲色をしている。黄櫨はドアノブを回すと、の存在を忘れているかのような態度でさっさと中に入っていってしまった。が続いて良いものなのかと躊躇していると、黄櫨はようやく振り返り、小さく手招きをする。灯りのない暗い部屋で、廊下の光に照らされぼんやりと浮かぶその手に呼ばれて、は静かに部屋に足を踏み入れた。途端、スリッパの下の床がふっかりと沈む。見れば足元には薄桃色の柔らかな絨毯が敷いてあった。暖炉のあった部屋や廊下のものに比べて、特に柔らかいように感じる。足への負担が軽減され、は一息ついた。

「この部屋、好きに使って良いって言ってたよ」
誰が、とは訊くまでもないことだった。黄櫨が壁のスイッチをパチリと押すと、部屋に眩しい光りが降り注ぐ。小さな、決して華美すぎないシャンデリアが照らし出した部屋で、まず目に入ったのが花柄のカーテン。そして、白のアイアンベッド。カーテンもカバーリングもクリーム色を混ぜた優しい桃色で統一されており、掛け布団にあしらわれた猫の柄はレトロな雰囲気を醸し出している。部屋の真ん中には、二人掛けくらいのソファ。その前の丸いガラステーブルには、硝子細工の人魚の写真立て。中に入っているのは写真ではなく、花の絵だ。

「凄く、可愛らしい部屋だね。絵本の中みたい」
は戸惑ったように、言う。

「気に入らなかった?」
黄櫨の問いに、は首を横に振った。
そうじゃない。そうじゃなくて、自分の好みに合い過ぎていて、気に入り過ぎて恐いのだ。だって、どう考えたってこれは、一般的な客室のイメージではない。ここまで来る途中、ドアの開け放たれた部屋をいくつか覗いてみたが、どれもこれも落ち着きのあるシックな雰囲気の部屋ばかりだった。その中で、この部屋だけが異彩を放っている。

「この部屋って、前に誰か使っていたの?」
の部屋だから、他には誰も使わないよ」
「……そう」
また、こんな具合だ。まるでわたしが来ると前もって知っていたかのような、わたしがどんな人物なのかを知っていたかのような台詞。さっきの自己紹介の時も、黄櫨くんはわたしを知っていると言っていた。わたしは最初、それは幼さから来る意味の無い言葉の一つだと思っていたけれど……今では彼が、そんな無意味な戯言を言うような子供だとはとても思えない。それに、常盤さんだって。今日、初めて会ったばかりなのに。

は冷たい手で心臓に触れられたような、不快感を感じた。
積み重なった違和感は、彼女に疑念を抱かせ、彼女を恐怖させる。

「黄櫨くんは、わたしを知ってるんだね」
「うん、知ってる。そう言ったでしょ」
当然のようにそう言った黄櫨の口ぶりは、何を今更、とでも言いたげだ。

「ねえ、どうしてわたしを知ってるの。ついさっき会ったばかりだよね?」
「君がそれを不思議に思っていて、なのに常盤が何も言わないんだったら、僕からは何も言えないよ」
そう、だ。どちらかといえば常盤さんの方が黄櫨くんよりも、わたしをよく知っているかのような言動をする。だってわたしは―――わたしは連れてこられたとしか言っていなかったのに、彼はわたしがどこから連れてこられたのかを知っているようだった。“君の世界”だって?それは一体、どこの世界の話だと言うのだ。ピーターは、わたしの世界の存在そのものを“半信半疑”だと言っていたのに、本人の口から聞きもせず、そんな世界からやってきたと分かるものなのか?そしてこの世界と比べられる程に、わたしの世界をよく知っているというのか?
……わたし、自分のことなんて全然説明しなかったのに!

は、あんまり常盤が好きじゃないんだね」
黄櫨が探るように、の目を覗き込む。そのあまりに真っ直ぐな瞳から逃げるように俯いて、は答えた。

「そんなことは、ないよ。でも、どうしていいか分からない。どうして、自分の世界よりもわたしの意見を尊重してくれるのかが分からない。ごめんね。わたしは、他人の優しさなんてそう簡単には信じられない」

それなのに、彼がわたしの名前をあまりに自然に呼ぶのを聞いていると、簡単に信用してしまいそうになる自分がいるのだ。何の根拠もなく、無条件に、信頼してしまいそうになるのだ。それがなにより不可解で仕方ない。

黄櫨は僅かに目を伏せて、静かな声で訊く。

は、常盤が怖いんだね」
「……そうだよ。知らない人からの無償の優しさなんて、素直に受け取れるわけないでしょ。そんなの、怖いだけだよ」
たくさんお世話になって、これからもっと迷惑をかけるというのに、この言い草はあんまりだろう。だが、間違っているとは思わない。自分を見失うな、と言ったのは彼だ。そして、これが素直じゃない捻くれたわたしだ。紛れも無い、わたしなのだ。

「常盤は誰にでも優しい訳じゃない。それこそ無償の優しさなんてものとはかけ離れた奴だよ。それに常盤からしたら、君は知らない人じゃないんだ。君がだから、常盤は優しくするんだ」
あまり変化の無かった黄櫨の淡々とした喋りが、少しだけ早口に、少しだけ荒くなる。声の大きさはそれ程変わっていないというのに、その迫力には思わず身を引いた。

「言っておくけど、この国の人間は皆、一癖も二癖もある信用できない奴らばかりだよ。特に今は、世界が終わるかもしれないっていう特殊な状況だから、誰がいつどんな事をしでかしたって不思議じゃない。でも、常盤だけは絶対に君を裏切らない。たとえ世界を敵に回したって、常盤だけは君の味方だよ。だから君は、頼るしかないんだ。彼を」
には、彼らを結んでいる絆がどういった類のものなのかは分からなかったが、少なくともこの少年にとって常盤は、とても大切な家族なのだろう。だからこんなに一生懸命になれる。

「どうしても納得がいかないんだったら、常盤は頭のおかしな人なんだって思えばいいよ」
「まともに見えるから、怖いのに?」
「常盤は元々まともじゃないよ」
言いたいことは一頻り言い終えたのか、黄櫨の顔はどこかすっきりしているように見えた。彼が案内を買って出た理由は、この忠告をしたかったからなのかもしれない。と、は思った。

呆然と立ち尽くすの横を、黄櫨はさっと通り抜ける。去り際に小さく「おやすみ」と言って、彼は部屋を出て行ってしまった。



(あの子、割とよく喋るのね……) inserted by FC2 system