Act10.「わたしの部屋」



 慣れない他人の家の廊下を、小さな背中を頼りに歩いていく。の寝泊まり用に空き部屋の一つを貸してくれるということで、黄櫨に案内してもらっているところだった。

 は内心、常盤と離れて黄櫨と二人になったことに安心している。常盤は紳士的ではあるが、いかにも生真面目そうな雰囲気には圧があり、息が詰まるのだ。そして彼の過剰とも思える優しさも、苦しかった。
 対して黄櫨と二人で居るのは気が楽だ。それは彼が無害な(少なくとも今のところはそう見える)子供だからというだけでなく、彼の持つ独特な透明感のせいなのだろう。澄んだ空気に洗われ猜疑心が湧いてこない。

 心地よい無言の中、は黄櫨に導かれるまま階段を上がる。二階に上がって二つ、三つの扉を通り過ぎた後、四つ目の扉の前で黄櫨は立ち止まった。それは他の扉と同じ、苦そうな珈琲色の木の扉だ。

「この部屋を好きに使っていいって、常盤が言ってたよ」
 開けてみて、と黄櫨が囁く。は、人の熱などとうの昔に忘れてしまったような冷たいドアノブに手をかけた。ガチャ、と何の変哲もない音。軽くも重くもない扉が内側に開いていく。……部屋の中は真っ暗で、何も見えなかった。いや、それはおかしい。廊下に明かりはあるのだから、何も見えないなんてことはないだろう。なのにそこには、不自然な暗闇が不気味に充満している。中に入ることを躊躇するの背中に、黄櫨がゆっくり語り掛けた。

「大丈夫だよ。ここはもうの部屋なんだから。さあ入って。ちゃんと見て、触れてみて」
 黄櫨の言葉に押され、はそっと足を踏み入れる。すると……柔らかい。スリッパの底が床と優しく馴染んだ。見れば足元には薄桃色の絨毯が敷いてある。それを確認した瞬間、いくつかの家具も暗闇の中で朧に浮かび上がってきた。手探りで壁に触れると、一発で壁のスイッチが見つかる。慣れた感触でパチリと押すと、光が室内を照らし出した。

 館の雰囲気にそぐわない現代風のシーリングライトが照らし出した部屋には、花柄のカーテン。収納引き出し付きのシンプルなベッド。カーテンもカバーリングもクリーム色を混ぜた優しい桃色で統一されている。ベッドの脇にはサイドテーブル。壁には本棚、クローゼット。一人掛けの小さなソファまである。……キュート且つエレガント。実用性も備えていそうな部屋だった。どれもこれもの好みにマッチしている。

「凄く……素敵な部屋だね」
 は戸惑いの滲む声で言う。

「凄く良い部屋だね」
 と黄櫨も言った。それは初見の感想のようで、は首を傾げる。

「黄櫨くんはこの部屋に来たことが無いの?」
「この部屋はの部屋だからね。が来て、今やっと、完成したんだよ。さっきまで何もなかったでしょ?」
 黄櫨の言葉に、は箱の中の猫を見た気がした。

 もしかすると先程の暗闇は、何も見えないのではなく、“まだ誰にも認識されていない不確かな可能性”の状態だったのではないだろうか。今目の前に広がっている完成された内装は、この瞬間に、自分の認識により出現したもの。……とても信じられないが、不思議と理解できた。こうしている間にも本棚の中には本が、ドレッサーにはブラシや化粧品が並んでいく。それらはひとたび出現してしまえば、さっきからずっとそこに居たような顔で、全く違和感を抱かせない。

「わたしが来る前は、ここには何もなかったの?」
 家の中に不明瞭な空間を放置しているなんてことはあるだろうか?の疑問に、黄櫨は首を横に振る。

「ここはずっと、の部屋だよ。の部屋として、君を待っていたんだ」
 は黄櫨の言葉に“またか”と苦い顔をした。つい先程も、黄櫨はのことを知っていると言っていた。はその時こそ、それが幼さから来る意味の無い言葉の一つだと片付けていたが……今では彼がそんな無意味な戯れをする子供だとはとても思えない。それに黄櫨だけではないのだ。分別のある大人の筈の常盤も同様に、初対面とは思えない対応をしてくる。

「黄櫨くんは、どうしてわたしのことを知ってるの? わたしが来ることが分かってたの?」
のことは知ってたけど、来ることは分からなかったよ。未来のことなんて僕には分からない。どうして知ってるのかについては……僕からは話せない」
 黄櫨は眉を下げ少し困った顔でそう言うと、小さな口をギュッと結んでしまった。は、自分の口調が責めるようなものになっていたかもしれない、と反省する。ただ安易に「ごめんね」と言うのも違う気がした。

 “僕からは”と黄櫨は言った。それは他に話すべき誰かがいるということではないだろうか。そう、だ。どちらかといえば黄櫨よりも常盤の方が、気になる言動が多い。常盤はのことも、がどこからやって来たのかも、知っているみたいだった。ピーターが半信半疑だと言っていた異世界の存在を、シュレディンガーの猫を、不思議の国のアリスを、彼はとの共通言語として扱う。

は僕たちが……常盤が怖い?」
 黄櫨が探る目で、を覗き込む。そのあまりに真っ直ぐな瞳からは顔を逸らした。

「そんなことはないよ。ただ、どうしてあんなに優しくしてくれるのかな、って思うだけで……」
 自分の中にある全てを、黄櫨の目は見抜いている気がする。だからは、その目を見つめ返すことができない。

 お世話になって、これからもっと迷惑を掛けるかもしれないというのに……素直に親切心を受け取れない自分は間違っているのだろうか? ひねくれているのだろうか?

 常盤に納得できないなら、今黄櫨に言ったことを、そのまま彼に尋ねてみればいいのかもしれない。が、何故か本能がそれを拒否している。踏み込んではいけないと、自分の中の知らない自分が言っている。それについて深く向き合おうとすると思考に靄がかかった。(なんだろう、これは?)

「常盤は誰にでも優しいわけじゃない。寧ろ逆だよ。でも君がだから、常盤は優しくするんだ」
 変化の乏しい黄櫨の淡々とした喋りが、少しだけ早口に、少しだけ荒くなる。声の大きさはそれ程変わっていないというのに、は気圧されるのを感じた。

「常盤は絶対にを裏切らない。だからは、常盤を悲しませるようなことをしちゃいけない」
 には、彼ら二人を結んでいる絆がどういった類のものなのかは分からなかったが、少なくともこの少年にとって常盤は、とても大切な人なのだろう。だからこんなに一生懸命になれる。

 そしては、黄櫨の抱いている感情にも気付いた。それは自分のものと近い、よく知らない相手に対する警戒心。黄櫨は敵意こそ向けてこないが、それは勿論、信頼されているということではない。この少年は見守るように見張っているのだ。

 言いたい事を一頻り言い終えたのか、黄櫨の顔はどこかすっきりして見えた。よくよく見ると、無表情の中にも中々変化のある少年である。彼が案内役を買って出た理由は、この忠告をしたかったからなのかもしれないな……とは思った。

 立ち尽くすに、黄櫨は穏やかさと静けさを取り戻した声で「おやすみ」と言って、その場を去ってしまう。廊下、階段、その足音が遠ざかった。

 黄櫨が去って一人になると、はどっと疲れが圧し掛かってくるのを感じた。知らない環境と、唐突な展開。気を張り続けている所為で疲れが自覚できていなかったが、しっかり蓄積されていたらしい。

 起きた後のことなど考えず、何もかも忘れてベッドに飛び込んでしまいたかった。しかしこのまま寝てしまったら制服に皺が付いてしまう、と妙に几帳面なところが出る。
 部屋全体を見回して窓とドアの施錠を確認し、カーテンの隙間をきっちり埋めると、はのそのそ制服を脱いだ。下着姿で眠るのは落ち着かないし、少し寒いかもしれないと思ったが、心配は要らなかった。クローゼットを開けると寝着にちょうど良さそうな、肌触りの良いゆったりとしたワンピースが見つかる。はそれに袖を通し、脱いだ制服をハンガーにかけた。

 本当は顔くらい洗いたかったが、もう部屋から出る気が起きない。はスリッパを脱いでベッドに上がると、その柔らかな感触に沈み込む。

 何とも言えない落ち着く匂いのするベッドだった。横になると胃がぐるぐると音を立てる。空腹なのか、ココアが消化されているのか。……熱く甘いドロドロのココア。の脳裏に“ヨモツヘグイ”という言葉がよぎった。異世界の飲食物を取り込むことにより、体の中が組み変わって、新たな環境に適応していっているのかもしれない。だとしたら本当に自分は帰ることができるのだろうか? ……帰りたいのだろうか。

 は毛布を抱きしめる。部屋は静かだが、それが逆にうるさかった。自分の思考が鳴り響く。

(わたしは、ずっと願ってた)
 自分の知らないどこか別の世界があれば良いと。この目で、この足で確かめたいと。そしてそれは叶った。遂に描いていた夢が現実になった。心配もあるが、それ以上に好奇心もある。眠りから覚めて疲れが取れれば、それは一層増すだろう。しかし、手放しに喜ぶことはできない。

 何故なら……この世界で初めて、命の危機に遭遇してしまったからだ。明確に殺意を向けられたのは、自覚している限りでは初めての経験だった。時間が過ぎれば過ぎるほど、ようやくあの時の状況が浸透して、実感が湧いてきた。あの時ピーターが止めなければ、ハートの兵士は自分を殺していただろう。丸腰の女子高生に身を守る術など無かった。きっと明日からも、いや明日からこそ、もっと危険な目に合うのかもしれない。
 だが不幸中の幸いか、無条件に優しい味方が出来た。理不尽にしか思えない物語にもちゃんとご都合主義が搭載されているのだ。

 まだ。まだ、分からない。
 自分の中の、この世界に対する感情が分からない。

 はもしこの世界が気に入って「帰りたくない」なんて言ったら、とんでもなく怒るだろう親友の顔を思い出した。紫。放課後に一緒にお茶をしたのがもう遠い昔のことに思える。

 紫がもしこの世界に一緒に来ていたら……と、またも想像してみた。
 紫は意外と怖がりだ。ジェットコースターが苦手な彼女は、穴を落ちてくるだけですっかり疲弊してしまうに違いない。不思議の国に辿り着いてまず最初にすることは、気持ち悪そうにしている彼女の介抱だっただろう。

 兵士達に遭遇した時も、弱っている紫が居たならば、自分は気を奮い立たせてちょっとは格好良く出来たかもしれない。銃声が鳴ったら咄嗟に彼女の耳を塞いであげて、ピーターに置いてけぼりにされたって、今夜は野宿だ! なんて明るく言ってのけることが出来たかもしれない。

 紫はココア、好きだったかな。多分好きだったと思う。でもあのココアは甘すぎたかな?

(ああ……わたしはいずれにしても、帰らなくちゃいけないんだな)
 彼女のことを考えると、自然とそう思えた。いつも通りの親友の顔を思い浮かべていたからか、次第に心が穏やかになっていく。優しく心地よい薄暗さに、意識が溶けていく。

『もう、夢なんて見ては駄目よ。惑わされても、駄目』
 紫の声が聞こえる。

 不可抗力だから仕方ないんだよ、と

 わたしは眠りに落ちていった。 inserted by FC2 system