これは誰かのエピローグ。

 いつか夢見た不思議の国の、あとのあとの後日譚。
 手垢にまみれた結末の先、一人歩きを始める物語。

 これは誰かのプロローグ。

 アリスの居ない、ワンダーランド。



Act0.「終焉のプロローグ」



 深紅の夕暮れ時。謁見の間には、窓から射しこむ赤い闇が立ち込めていた。

 磨かれた大理石の床。中央には一直線に続くビロードの絨毯。その先、数段の雛壇の上に構えるは、絢爛豪華な金の玉座。

 玉座の背後には細長い窓が連なり、そこに座する王の姿を逆光で隠していた。焦がされた黒い影は身じろぎし、深い深い溜息を吐く。溜息は遥か高い丸天井に跳ね返り、また彼自身に圧し掛かった。

 もし今が夜で、その場に明かりが灯されたなら、彼の顔を見たものは哀れに思っただろう。もしくは魅了されただろう。彼は、歳の程は三十を過ぎたばかりのまだ若い王であったが、その顔は疲労にまみれ生気を感じさせない。
 結びがほどけた濡羽色の長髪。青白い肌と、刻まれた隈。伏していれば病人か死人と見間違いかねない男だったが、中性的で彫りの深い顔立ちには、それさえも妖しげな艶かしさとして映えていた。

 王は幾度となく苦しげに、物憂げに、憎々しげな溜息を吐き、その度に近衛兵達はハラハラし、苛々し、わざとゆっくり進んでいるかのような時間を恨む。しかしどんなに緩慢な時間も、やがては進むものだ。世界が赤から黒に傾き始めた頃、静寂の間に近付く足音があった。

 入口で控えていた兵士の一人が扉を開き、来訪者を恭しく迎え入れる。迎えられたその男はといえば、畏まらず慎ましからず堂々と、王の前に進み出た。

 男は背が高く、歩くだけでどことなく迫力があった。長い手足、すっと通った鼻筋に添えられた金縁のモノクル。血色の瞳にかかるよう力なく降りたまぶたは、気怠げで感情が読み取れない。混じり気のない白い癖毛のてっぺんには、二本の長い耳。それはヒトではないウサギの耳だったが、この場所には今更、それに驚く者はいない。

 翳りを増した夕闇に照らし出されるウサギ男に、王は苦い顔で言葉を絞り出した。

「罰するべきはお前の時計か、それともお前自身か? 流石の私も待ちくたびれてしまったぞ、ピーター」
「何が流石ですか。あなたは元から気が長い方じゃないでしょう」
 ピーターと呼ばれた男は、やれやれと肩を竦める。王は彼の無礼な様子に特別気分を害した様子もなく、常の不機嫌さを湛えたまま言葉を返した。

「どの口がそれを言うんだ? 私の数え間違いでなければ、城の者がお前を呼びに行ってからもう半月は過ぎたと思ったのだがな」
「半月を長いとするか短いとするかは、非常に難しい問題ですね。主観的な感覚です。共通の認識で語るなら、規準を設ける必要があるかと」
 ……王は押し黙る。兵士達はピーターの王に対する態度にヒヤヒヤしていたが、それは今に始まった事ではなく、半分諦め顔である。

「全く、お前は相変わらずなのだな。立場を弁えないその気楽さ、呆れを取り越して感服する。……それで、我が優秀な補佐官殿は、今まで一体どこに姿をくらませていたんだ? 申し開きがあるならば聞こうではないか」
「城での生活に色々と疲れまして、森の方でのんびりと暮らしていたんです」
 ほとんど自給自足の生活でしたよ。と、全く悪びれないピーターに王は呆れ果て、両手を上げると降参の笑みを零した。兵士達は二人の一言一行に振り回されぐったりとしている。

「それで、どうだったんだ?」
 王の問いは、何も悠々自適なキャンプライフに向けられたものではない。ピーターその瞳に少しばかり真剣な色を帯びさせ、声のトーンを落とす。

「グリムの森から北東の一帯は既に虚無化が進み、住人の避難は間に合わず被害は甚大。詳細は別途、報告書をご確認ください」
 事務的に告げるピーターに“なんだ、ちゃんと仕事はしてきたのだな”と王は安堵の息を吐いた。

 ――半年前、王が直々に彼に命じたのは、この世界の存亡を揺るがす目下最大の問題“虚無化”についての調査だった。王の補佐である彼をわざわざ現地に向かわせたのは、ピーターが適材だったからという理由に他ならない。それはこの国のルールの一つに基づくものであったが、それを今更説明するには、無知な他所者でも現れない限りきっかけは無いだろう。

 虚無化とは一年ほど前から観測され始めた現象で、暴力的な災害である。どこからともなく湧き出た化け物が、人を襲い大地を荒らすのだ。害された人々、蝕まれた地は“消滅”し、誰の記憶からも消えていく。残された記録や間接的な痕跡から元の位置、広さ、規模を算出するに、既に大陸の三割もが消滅していた。

「今回の調査の結果、これまでの予測通り、虚無化の発祥は一年ほど前。リュウグウ岬近辺が発祥源で間違いないでしょう。また虚無化の進行方向は一定ではなく、発生場所も東西南北に点在しています」

 ピーターは説明しながら、手を隠すように背中の後ろに持っていくと、また前に出す。するとその手の中には奇術の如く、筒状に丸まった大きな紙が出現していた。ピーターは王の近くまで歩み寄ると、その紙――地図を直接手渡す。王はそれを受け取り、自分と彼にだけ見えるようそっと開いた。王の視線が紙面を走り始めると、ピーターは小さな声で説明を再開する。

「これは虚無化の進行状況をまとめたものです」

 そして、一つ一つの事実を端的に、一つ一つの見解を淡々と述べていく。報告が進むにつれ王の表情は曇っていった。そこに描かれているのは王にとって、この世界の全ての命にとって死へのカウントダウンに他ならないからだ。しかし自身もその渦中にありながら、ピーターはあっけらかんとしている。

「今回、僕にしては珍しく真面目に頑張りましたよね。なので暫く休暇をください」
 そうふてぶてしく言ったピーターは、王の承認も得ずにその場を立ち去ろうとした。凝った肩を鳴らして、ポケットに手を突っ込み、颯爽と……

「いや、だめだ」
 その背を王が呼び止めた。険しい顔で睨む王にピーターは足を止め、目を細めて腕を組む。王は頑固で身勝手で人使いが荒いが、働きに見合った対価も惜しまない人物だ。それどころではない程、何か面倒な事態になっているのだろう。既に面倒な事態に違いないのだが、それ以上の何かがあったに違いない。

「お前には、早急に次の仕事にあたってもらわねばならない。今こうして顔を合わせている時間が惜しい程、事は急を要するのだ」

 やはり、とピーターは露骨に顔を顰めた。城の者が自分を呼びに来た時から、その慌てぶりから大方の予想は付いていたが、是非とも外れていて欲しかったものだ。

「はあ。まあ、何かあったのだろうとは思ってましたがね。僕が居た森でも、野兎や林檎の木々が噂していましたから。王は城に引き篭り、日々“終焉”への恐怖に震えながら過ごしていると」
 王の手で、地図がぐしゃりと潰される。(そして次の瞬間には、地図は空気に混じるように消えていった)

「ああ流石だな。話が早くて助かる! そしてお前の居た森には、明日にでも火を放っておいてやろう!」
「あなたも物好きですね、残り少ない領地を自ら灰にするなんて」
「アップルパイは好きだろう?」
「ウサギのパイは遠慮しておきます」
 王の反応は、いつもの王らしいものだった。彼は短気で物騒な手段を口にしがちだったが、決して浅はかではない。短気さは根の臆病さの裏返しで、臆病ゆえに慎重だ。だからこれはポーズであり、口先だけの冗談だと分かっていたが、それに和むことができるほど場の空気は穏やかではなくなっていた。

「一体何があったんですか?」
 ピーターの問いに王は一層表情を翳らせると、口を引き結び顔の前で両の指を組む。薄い唇の前で絡み合う長くしなやかな指は、言葉の糸を編んでいるようだった。言うことを選んでいるのか、勿体ぶっているのか、何も口にする気力がないのか。
 王は顎先で兵士達に部屋を出るよう指示し、気配が遠ざかったのを確認するとようやく口を開く。

「半月前の定期予言会に、お前は居なかったな」
「ああ、月に一度の“グリフォンの定期予言会”ですね。それはもちろん、あなたの命で不在にしておりましたので」
 この国では月に一度、神通力を持つグリフォンによる“予言会”が開かれる。グリフォンの予言は的中率九十%を超える“予報”であり、この国の意思決定において非常に重要なものだ。そのため予言会には、王や各省の大臣など限られた者のみ参加し、予言内容も重要機密として扱われた。先ほど王が兵士達を追い払ったのも、予言の話を聞かれないためである。

 予言の内容は自然災害から流行り病、事件、事故と多岐に渡っているが、世の全ての事柄に対する網羅性はない。あくまでグリフォンがその時見えたものだけ、予言として降ろされた。またその予言の形も様々であり、時に詩であり絵であり歌であったため解読班が設けられているが、解釈が誤っている場合や複数に分かたれてしまった場合は、しばしば混乱を生んだ。

「今回の予言はこうだ――『次なる満月の夜、胡蝶は夢から覚め、世界に終焉が訪れる。美しき羽音が響く時、物語は白紙へ戻り、運命の糸は断ち切れ、世界は虚無に融けこむ。その時、我らは美しき終幕を迎えるだろう』……と」

「……はあ。また随分回りくどいですね。出来損ないの詩のようだ。それで解釈は?」
「解読班は、これを世界滅亡の予言だと考えている」

 王は声を潜め“手ごろな宙から”文書を取り出すと、手招きした。ピーターは重い足取りで再び彼の元に歩み寄り、その紙面に目をやる。

 ――予言の解釈では、夢から覚める胡蝶を“アリス”だと捉えていた。

 アリスとは、この世界の者なら誰もが知る名前である。
 この世界……不思議の国は、唯一の観測者の観測によって成り立っていると考えられていた。その観測者が“アリス”と呼ばれる創造主だ。アリスはこの国の根幹として、概念的に存在しているが、近年では個としての人格を持つ生物である可能性が高いとされている。

 現在問題になっている虚無化も、アリスの意志によるものとされ、アリスを神と崇め祀る人々は受け入れるべき運命だと主張していた。そして王は、その人々ともアリスとも対立する立場である。

 今回の予言の解釈では、不思議の国をアリスが見ている夢とし、虚無化を夢から目覚める過程としていた。そして次の満月の夜に、世界は終わる。書にはたったそれだけの結論に至るまでの、様々な考察が長々と綴られていた。

「分かっただろう。一刻の猶予もないことが」

 この国は直に、アリスによって滅ぼされる。

「まあ、この予言と解釈が、合っているなら」
 ピーターは、まるで使い古されたおとぎ話を改めて聞かされているように感じていた。
 今、不思議の国を騒がせている虚無化は、自然的なものではなく誰かの悪意ある攻撃としか思えず、そしてそんなことができるのは、自分達と同列の存在ではない。超越した存在によるものだと、彼は本能的に察知していた。おそらく王も、部屋の外の兵士達も、この国の生物は細胞レベルでその存在に勘付いていた筈である。

 ただそこに具体的な期限が設けられたのは、この予言が初めてだった。

「何が夢だ、終幕だ……神などと思い上がっている、傲慢な死神め」
 王の目は怒りで煮えている。死神も神では? という軽口を、ピーターは飲みこんだ。

 ピーターは、この解釈をした人々の安否が気になった。よくもまあ、アリス嫌いで有名な王に対してこの解釈を提言できたものだ。己の使命を全うする姿勢が素晴らしすぎて愚かとしか思えない。

「各地で起きている虚無化も、我々を弄んでいるに違いない。予言とて予言を介した宣戦布告だ。ああ、創造主が神など実に下らない! 世界に滅びをもたらす悪を崇め奉る者どもの気が知れん!」
「……はあ」
 頭に血を上らせた王だったが、ピーターが変わらず涼しい顔をしていることで憤りの矛先を見失う。フンと鼻息荒く椅子に座り直した。

「話を戻す。つまり解釈通りなら、この世界は近い内に滅びるということだ」
「そうなりますね」
「……お前は本当にブレないな。いつでも平然と淡々としている。事の重大さが分かっていない筈はあるまいに、自分事だと捉えていないのか。……だがお前とて、何も思うところがないという訳でもないのだろう?」
 責めるにしてはどこか生温さを帯びたその問いかけに、ピーターは探られる不快感を覚える。それから逃れる為、王が敢えて気を立てるようなことを言った。

「僕は、面倒なことは嫌いなんですよ。運命があるなら身を任せる方が楽だ」
「運命、だと?」
 その言葉に王はガンと肘掛を殴りつけて立ち上がる。

「貴様まで奴が神などという、馬鹿馬鹿しい思想を植えつけられたか!」
「落ち着いてください。糖分が足りてないんじゃないですか?」
「甘党のお前と一緒にするな! 私はもう落ち着いてなどいられないのだ! 日に日に壊れていく、この皹だらけの国を、私はもう見ていたくは無い!」
 王は呻くように言いながら頭を掻き毟る。そんな彼に、その玉座から飛び降りて、全てが終わるその時まで自由気ままに楽しく生きていくことを勧めるのは不可能だろう。

「それで僕にどうしろと? 次の仕事は何ですか?」
 そうだった、そうだったと、彼は上がった頭の熱を冷ますように額に手を宛がい深呼吸する。それから視界を邪魔する髪を指でかき上げて、沈んだ冷たい闇色の瞳を細めると、静かに厳格に、よく通る声で命じた。

「あの者を……我等の国を滅ぼそうとしている不届き者を――アリスを捕らえよ!」

(うわっ)
 やはりそう来たか、とピーターは苦い顔をする。

 国王の命令だ。その命令を無視することも、ましてや背くことなど出来ないということは“世界の理”としてよく理解していた。

「どうして僕なんですか?」
「白ウサギは“アリスを連れてくる”役目に相応しい。それだけだ。引き受けてくれるだろう?」
「それが陛下の命なら」
「やけに素直だな。面倒くさがりのお前のことだ。てっきり断るものとばかり」
「より大きな面倒ごとを、避けるためですよ」
 何よりも面倒で最悪なパターンは、王の命に従うことではない。王の命に逆らい、反逆者として追放され、実力行使に回った彼を相手にすることなのだ。

 話はそれだけかと、ピーターは王に一礼して背を向け、重い足取りで謁見の間を後にしようとする。しかし数歩も行かないところで再び王に呼び止められ、彼はうんざりと首だけを後ろに回して、まだ何かあるのかと問うた。

「くれぐれも時間が無いということを忘れるな。期日は次の満月までだ。手段は問わない。必ず、それまでにアリスを捕らえよ」
(次の満月……)
 そういえば、とピーターは思い出す。

「その日は……“彼女”の刑の執行日でもありましたね」
「そうだ、あの残虐な魔女の死刑執行日だ。せめてもの冥土の土産に、是非彼女にも見せてやりたい。彼女が神と信じたアリスが、業火にその身を焼かれる様を。あの魔女は、果たしてどんな顔をするのだろうな」
 王は嗜虐の笑みを浮かべて舌なめずりをする。その悪趣味さに、ピーターは微妙な、濁った返事しかできなかった。魔女と呼ぶ少女の話をするとき、いつも王の心は乱れるようだ。

 だが彼が夢見る魔女の処刑は、恐らく失敗に終わる。ピーターの脳裏には、それを何としてでも食い止めようとするだろう筈の女が一人、浮かんでいるからだ。王にとっては恐るるに足らない小さな反乱分子の一つに過ぎないのだろうが、彼女の性格を知っている手前、ピーターにはどうもこの男の妄想通りに事が進むとは思えない。

「話はそれだけだ。この国の未来はお前の手にかかっている。期待しているぞ」
 ピーターは今度も曖昧な濁りを返しただけだったが、二人の間にはそれで充分だった。

 彼がのそのそと部屋を出て行ったのを見届けて、王はこれからの事を思い、大きく息を吐く。……ピーターだけに任せきりにする気はない。最大限の力を尽くして、この国を護ること。それが王としての自分の責任なのだ――と、王は決意を固めるように拳を握り締めた。
 が、つい先程まで向かい合っていた男の声が扉の向こうから聞こえてくるのを聞いて、脱力せずにはいられなかった。

「あ、そこの君。コーヒーを一杯くれる? あとキャロットケーキとアップルパイもね」
「お前は話を聞いていたのか! 早急に、今すぐにこの城を発てえええ!」 inserted by FC2 system