夕闇に赤黒く彩られた玉座の王は、言い知れぬ恐怖に蝕まれていた。

鴉の濡羽色の髪を肩のところで束ねていた紐は解けかけていて、流れてきたいくつかの束が彼の表情を隠している。時だけが音もなく、刻々と刻まれていた。
毒々しい赤がほとんど黒に飲まれてしまった頃、静寂の間に近づく足音があった。そこでようやく、彼は顔を上げた。

歳の程は三十を過ぎたばかりのまだ若い王であったが、その顔は疲れきっているようで生気を感じさせない。しかし元々整った顔であるが故に、その病気のように青白い肌も、うっすらと刻まれている隈にさえ、妖しげな艶かしさがあった。
離れたところで控えていた兵士の一人が扉を開き、来訪者を恭しく迎え入れる。と、その姿を確認してからようやく、王は沈んだ灯篭の瞳に僅かな安堵を滲ませて表情を和らげた。



Act0.「王の憂鬱」



「今回はまた、えらく遅かったじゃないか。流石の私も待ちくたびれてしまったぞ、ピーター」
「何が流石ですか。あなたは元から気が長い方じゃないでしょうに」
ピーターと呼ばれた男は、やれやれと肩を竦めて首を左右に振った。対して王は、彼のそんな態度に眉根を寄せる。

「どの口がそれを言うんだ。私の数え間違いでなければ、城の者がお前を呼びに行ってからもう半月は過ぎたと思ったのだがな」
「そうでしたっけ?生憎時計をどこかに落としてしまいましてね。最近はずっと時間が分からないんですよ」
兵士達が、ピーターの王に対する態度に顔を青褪めさせているが、その中の誰一人として彼を諌めることが出来る者はおらず、ただ静かに、王の心の平安を祈る他は無い。けれどその気持ちを微塵も汲み取ろうとしない当の本人は、飄々と涼しげな顔をして王の苛々を煽っている。王は「ああ」と短く嘆声を漏らした。

「それで、王の補佐として私の傍に付き従う身でありながら、お前は今まで一体どこに姿をくらませていたんだ?申し開きがあるならば聞こうじゃないか」
「城での生活に色々と疲れまして、森の方でのんびりと暮らしていたんです」
ほとんど自給自足の生活でしたよ。と、全く悪びれないピーターに遂には王も呆れ果てて、降参だと言わんばかりに手を顔の前まで挙げ、小さく笑みを零す。兵士達は二人の一挙一動に振り回されぐったりとしているようだったが、それは二人の知ったところではない。

「全く、お前は相変わらずなのだな。立場を弁えないその気楽さ、呆れを取り越して感服するぞ」
「それはどうも、光栄です陛下。でも、やっぱり城での生活の方が幾分楽でしたね。身の回りの事は必ず誰かしらがやってくれますし」
連れ戻されたことだしこのまま戻ってこようかと言ったピーターに、王は静かに首を横に振った。その王の反応に驚いた様子も見せず、ピーターは目を細めて腕を組みなおす。場の空気からそれとなく、これから何か面倒なことになると察したようだった。

「お前には、即急にこの城を発ってもらいたい。今こうして顔を合わせている時間さえ勿体無い程に、事は急を要するのだ」
やはり面倒事か、とピーターが露骨に顔を顰める。城の者が自分を呼びに来たときから大方の予想は付いていたが、是非とも外れていて欲しかったものだ。素直に森を出てきたのが間違いだったのかと後悔の念を抱く。

「はあ。まあそんなところじゃないかとは、思っていましたがね。僕が居た森でも林檎の木々が噂していましたから。王は城に引き篭り、日々を“終焉”への恐怖で震えながら過ごしていると」
「……ああ流石だな、話が早くて助かる。そしてお前の居た森には明日にでも火を放っておいてやろう!」
「……あなたも相変わらずのようですね」
二人は一瞬だけ、ニヤリと悪戯っぽい視線を投げ交わした。だが、久々の再会を懐かしむような親しい間柄でないのは先刻承知のこと。穏やかな空気は頭の先を見せかけただけで、それもまやかしだったのではないかというくらいにすぐ冷えていく。

「しかしその様子からすると、どうやら噂は真実だったようですね。口を開けば噂話ばかりの、やかましい林檎の木々の情報網も、あながち馬鹿には出来ない」
「そうだな」
王はふ、と表情を翳らせる。彼は両手を前で組み合わせて、頬杖をついた。薄い唇の前で長くしなやかな指が絡み合う。と、その指がマジシャンのようにサッと動いたかと思えば、いつの間にか彼の手には一枚のカードが掴まれていた。王はそれを玉座から階段の下へと放つ。そのカードは空を切り、迷うこと無く一直線にピーターの足元に刺さった。

「トランプ?」
ポストカード程の大きさの四角の表面には、トランプの背面に描かれるような模様があしらわれている。さくっと絨毯に刺さったことから見て取れたが、拾い上げてみればそれは鋭利な金属板だった。「裏だ」という王の言葉にピーターがそれをひっくり返せば、それはハートのキングのカードで、キングの絵柄は、赤色のペンキで書かれた不恰好な「A」の文字に塗りつぶされている。

「……ハートのエースが反逆でも?」
「馬鹿か。あの愚直者にそんな真似ができると思うか?」
「では、」

ピーターのその次の言葉を遮るように、王は話し始めた。

「一月前の満月の夜、それが私の寝室の窓を突き破った。厳重な警備を掻い潜ってその様な真似ができる者の仕業だ。そして、私はこのメッセージをこう受け取った。これは、“アリスの宣戦布告”であると」
アリス。その名前に、場の空気が張り詰める。

「毎月行われるグリフォンの定期予言にも、その日以降新たな項目が追加されている。その予言によると、こうだ。『次の満月の夜、胡蝶は夢から醒め、世界に大きな変革が齎される』と。この世界がアリスという蝶の夢であるなど、傲慢な考えだ。だがそう考えるならば」
「唯一の観測者によって成り立っていたこの世界は、観測者が観測を停止することにより、消え去ると?」
「そうだ。つまり」

変革とは世界の終焉であり、無の始まりだ。と、王は言った。

「アリスの手による世界の終焉!これは、奴の私に対する宣戦布告、犯行予告に違いない!」
その瞳に轟々と憎しみと敵意の炎を照らす王に、ピーターは疑わしげな視線を送る。

「……もし、それが本当のことだったとしても。これは犯行予告ですか?託宣では?」

その言葉に、王の瞳の色が明らかに変わった。

「貴様まで奴が神などという、下らない思想を植えつけられたか!!」
ガタン。ピーターの言葉に激高した王が乱暴に椅子から立ち上がる。

「創造主が神など、実に下らない!頼りにならぬものを崇め奉る者の気が知れん!」
怒声を上げる王に、側近の者達は彼をおさめようと必死な様子だ。頭に血を上らせた短気な王は、しかし相手が素知らぬ涼しい顔で立っていることでこの憤りをぶつける相手を見失い、フン、と鼻息荒く椅子に座りなおす。

「話を戻す。その犯行予告が奴からのものである以上、このままではその予告通りに……この国は近い内に滅びるだろうな」
その言葉に兵士達がざわつき始めるが、ピーターは動じず……寧ろその話がまるで興味を示す対象でもないように、顔色一つ変えない。

「気付くも何も、僕達は最初から知っていたじゃないですか。いずれ来るだろう時が近々訪れる。夕方の次に夜が来るように、当然の理だ」
「理、か。随分と淡々と言うのだな。それでは私達の意思はどうなる?黙って消え行くその時を待てとでも言うのか、なあ、お前は、それが本心からの言葉だと言えるのか」
早口で責めるような口調の王を冷たい目で一瞥して、ピーターは視線を床に落とす。

「僕は、面倒なことは嫌いなんですよ。彼女がそう決めたのなら、それが僕達の運命だ」
運命だと、と王は憎しみを込めた声で復唱し、ガン、と肘掛を殴りつけて再度立ち上がった。その物音と怒りに満ちた形相に側近の者たちも威圧されて近付けず、兵士達は驚き、恐れ、とうとう慌てふためくが、ピーターは、そんなに座っているのが嫌なら初めから立っていればいいのに、と少し大袈裟に溜息を吐いただけだった。

「はあ。落ち着いてくださいよ。糖分が足りてないんじゃないですか?ブドウ糖」
「ああ!すまないな!だが、私はもうとても落ち着いてなどいられないのだ。日に日に朽ちていく、この皹だらけの国を、私は、もう見ていたくは無いのだ……!!」
王は呻くように言いながら頭を掻き毟る。そんな彼に、その座椅子から飛び降りて、全てが終わるその時まで自由気ままに楽しく生きていくことを薦めるのは不可能だ。そう理解したピーターは、諦めて先を促す。

「それで僕にどうしろと?その為に呼んだのでしょう」
そうだった、そうだったと、彼は上がりに上がった頭の熱を冷ますように額に手を宛がい深呼吸する。それから視界を邪魔する髪を指でかき上げて、日の沈んだ冷たい闇色の瞳を細めると、王は静かに、厳格に、よく通る声で命じた。


「あの娘を……我等の国を滅ぼそうとしているあの娘を―――アリスを即刻捕らえよ」



(うわあ)
やはりそう来たかと、ピーターは苦虫を噛み潰したかのような顔で、心の内で舌打ちする。

国王の命令だ。その命令を無視することも、ましてや背くことなど出来ないということは“世界の理”としてよく理解していた。

「引き受けてくれるか」
「僕を誰だと思ってるんですか。それが出来るのは僕だけで、僕はそれをしなくちゃならないんでしょう」
「これまた随分と似合わないことを言うじゃないか。……しかし驚いたな。面倒くさがりのお前のことだ。てっきり断るものとばかり」
「あなたを誰だと思ってるんですか、国王陛下。たかだか僕程度の者があなたに逆らえるとでも?」
何よりも面倒で最悪なパターンは、王の命令に従うことなどではない。王の命令に逆らい、反逆者として追放され、実力行使に回った彼を相手にしなくてはならなくなることだ。だからそれを回避しただけだと、彼は言う。どちらにしても非常に面倒で非常に不本意なのだが、少しでも楽な方を選んだ、ただそれだけのことだと。

話はそれだけかと、ピーターは王に一礼して背を向け、重い足取りで王廟を後にしようとする。しかし数歩も行かないところで王に呼び止められ、彼はうんざりと首だけを後ろに回して、まだ何かあるのかと問う。

「……すまないな。期日は予告通りだとして、次の満月までだ。なるべく早いに越したことはない、急いでくれ」
次の満月。改めてその言葉に何か引っかかるところを覚えたピーターは少し考えて、その夜に関連した情報を探り当てる。

「次の満月といえば……あの残虐な魔女の刑の執行日でもありましたね」
「そうだな。せめてもの冥土の土産に、是非彼女にも見せてやりたい。奴が慕ったアリスが、業火にその身を焼かれる様を。罪に穢れたあの魔女は、果たしてどんな顔をするのだろうな」
王は嗜虐の笑みを浮かべ、舌なめずりをする。口にしたその場面を想像しているのか、次第にその笑顔が恍惚としていくのを見て、ピーターは微妙な返事しかできなかった。アリスを処刑するのは困難だろう。そして魔女と呼ばれる少女の刑は、恐らく失敗に終わる。
魔女の処刑。ピーターの脳裏には、それを何としてでも食い止めようとするだろう筈の女が一人、浮かんでいた。王にとっては、恐れることも無ければ敵対することさえ無意味な小さな勢力のひとつに過ぎないのだろうが、彼女の性格を知っている手前、ピーターにはどうもこの男の妄想通りに事が進むとは思えなかった。
だからといって、どうというわけでもないけれど。

「話はそれだけだ。この国の未来は全てお前の手にかかっている。必ずしや、アリスを連れて帰るんだ。期待しているぞ!」
ピーターは今度も曖昧な濁りを返しただけだったが、完全に夜に飲まれた闇の中でも血の様な赤を湛えているその瞳は、静かな光を灯していた。彼が小さく頷きのそのそと王廟を出て行ったのを見届けて、王は再び静寂を取り戻したその場で、大きく息を吐く。が、ついさっきまで向かい合っていた男の声が扉の向こうから聞こえてくるのを聞いて、腰を浮かさずにはいられなかった。


「あ、そこの兵士。コーヒーを一杯くれる?あとにんじんのパイもね」
「お前は話を聞いていたのかああああああ!!早急に、今すぐにこの城を経てええええええ!!」 inserted by FC2 system