000「ワタシとワタシ」



『ねえ菊、私、学校に行きたくないの。もうどこにも行きたくないの。ずっとここに居ようよ』
ベッドの上で布団をかぶって、少女は泣きながらノートにメッセージを記した。それから暫くはペンを握ったままノートを見つめていたが、震える手ではそれ以上は何も書けず、ノートを閉じて枕の下に潜り込ませる。そして両手で己の身体を抱きしめるようにして、悲しみと孤独の中眠りに落ちていった。

また今日も、いつもと同じ朝がやってくる。
少女は目覚めるとまず初めに、枕の下に腕を差し込んだ。そして昨晩自らがそこに隠したノートを開き、昨晩残したメッセージを見ると、溜息を吐いた。

『また誰かに酷いこと言われたの?君がそういうなら、この部屋から出なくてもいいけど』
菊はそう書き記すと、ノートに残る涙の跡を指でなぞる。

「あの子は、また泣いたのか」
憐れむように、愛おしそうに、菊はその跡に口付けをした。


山本菊は、普通の少女だった。
言動におかしなところがあり、級友や親にまで疎まれていたが、本人は至って普通の女子中学生であると思っていた。自分の中に、もう一人の自分がいることを除いては。

二人の菊が初めて“相手”の存在に気が付いたのは、もう随分昔のことだった。食べた覚えのないおやつが減っていたり、した覚えのない悪戯で叱られたりということを繰り返し、物心が付き始めた頃には、自分の中にもう一人の自分が居ると自然と認識していた。

片方の菊は、繊細で落ち込みやすく、引っ込み思案な少女だった。外で皆と遊ぶよりも部屋の中で一人で読書をしたりする方がすきで、小学校入学と同時に習い始めたピアノは、彼女の趣味であり特技でもあった。だが上がり症で、コンクールではいつも結果を残せないような、そんな少女だ。

片方の菊は、社交的で前向きな、世渡り上手な少女だった。幼い頃から川でザリガニを捕まえたり、野草を採って食べてみたりが好きで、けれどもう片方が日焼けするのを嫌がったから、次第に絵を描くことを趣味にし、特技にしていった。学校行事ではよくポスターを手掛け、よく皆から褒められるような、そんな少女だ。

自分の中にもう一人居る。そう気付いた二人は、ノートを使って意思を伝達する方法を考え出した。二人が入れ替わるのはいつも突然であるから、ノートは常に肌身離さず所持していた。入れ替わっている間の記憶はなく、書き記されたメッセージ以外に、もう片方と触れ合うことは出来なかった。

ある日、弱気な方の菊がふと、もう一人の存在を口にしてしまった。それから、周囲の人は不審がるようになっていった。強気な方の菊が出ている間は上手くフォローし、なんとかやってきていたが、弱気な方の菊はいつも周りの白い眼に怯えていた。

『また、“嘘つき”って言われたの。二重人格のフリなんかして気持ち悪いって。この前ノートを見た奴らよ。また独り言書いてるのかって、言われたわ。あなたは居るのに、どうして?』

いつの間にか増えているメッセージに、菊は困ったように笑ってペンを握った。

『他の人には分からないんだよ、菊。だってわたしは君で、君はわたしだからね。そういう人たちの言葉をあまり聞くものじゃないよ。落ち着いたら、また学校に行こう。わたしがどうにかしてあげるから』

『ねえ菊!私あなたに会いたいわ!!あなたに会って、抱きしめて欲しいの。寂しいのよ、すごく』

『会うも何も、わたし達は一番近い所に居るじゃない。寂しいことなんて無いでしょう』

『寂しいわ。ねえ菊、私のこと好き?』

『勿論。好きだよ、愛してる』

こういうメッセージのやりとりを一人でしているとして、それは傍から見ればさぞ気持ち悪いだろうな、と菊は納得顔で頷いた。けれど彼女に、彼女らに、この方法以外で愛を囁き合う手段は無かった。

お互いに恋心を抱くようになったのは、いつからだったか覚えてはいない。絶対に触れ合うことのできない相手に、出会うことのできない相手に、わたし達は不毛な恋をした。苦境を笑いながら躱していける強さに、凛とした可憐な少女らしさに、恋をしていた。

「……これは」
ある日、手首に小さな切り傷があった。菊は嫌な予感がしたが、ノートにはそのことで特別何か書かれているわけではなかったので、偶然付いてしまった傷なのだろうと思うことにした。

しかし、手首の傷は日に日に増えていく。ノートのメッセージにも、焦燥感が目に見え始めていた。

『菊、菊、菊!私もう耐えられない!このままじゃダメなことくらい分かっているの!学校にも行かないで、受験勉強も全然しないで、親にも煙たがられて、これからどうしたらいいの!?どうしてあなたは私の傍に居ないの!!』
傍に居るもなにも、わたし達は二人で一つだというのに、もう片方の菊はいつも会いたい、傍にいて、と願っていた。わたしだって会いたいと思っていないわけではないが、こうして一つの身体を共有しているのも、嫌いではなかった。わたしには、菊の悲しみが理解できなかった。

『菊、菊、菊!私、もう生きていたくないわ。もう耐えられない』
わたしがそのメッセージを見たのは、病院のベッドの上だった。どうやら遂に菊は、本格的に自殺を図ったらしい。マンションの自室から飛び降りたらしいが、三階だったことと、偶然下に生えていた木にひっかかって骨折だけで済んだ。彼女のことだから、寸でのところで木にしがみついたのかもしれない。彼女に、死ぬ度胸など無いのだから。

と、思っていたのだが、その日からもう片方の菊がノートにメッセージを残すことは無くなり、わたしの意識も起きている間はずっとはっきりし続けた。

あの日、彼女は確かに死んだのだ。

怪我が治るとずっと室内に居ることが嫌になり、再び学校に通い始めた。両親や担任は「ようやくまともになってくれた」と安堵し、社交的な性格のわたしが全面に出たことで、級友との距離はすぐに縮まった。高校受験も上手くいき、一人の菊が死んだことで全ては上手く回っていた。


ある朝、まだ夜が完全に明ける前、菊は一人でマンションの屋上に佇んでいた。
空は深い青に僅かに橙色が混ざり、幻想的な空間を作り出していた。以前もう片方の菊にこの時間、この屋上から見る景色を勧めたことがあったが、彼女はまだ薄暗い時間に一人で出歩くことが怖いと、結局この空を見たことが無い。そういえば、この空にもそろそろ空中鉄道が通るらしいから、これが本当に見納めだ。

「菊!学校に行って受験勉強して、高校も割と良い所に合格したよ。友達もたくさん出来たし、親とも仲直りした。もう何も嘆くことはないよ!」
そう言って空を仰ぐその目から、大粒の涙が零れ落ちた。
「でもやっぱりわたしは、君が居ないと嫌だなあ」
菊は少しも恐れることなく、屋上の柵に足をかける。そのまま柵の上に上がり、両手を広げて立って深呼吸をした。

「菊、愛しているよ。今から君に会いに行くからね。大丈夫、わたしは君みたいにヘマはしないから!!」
悲しく、どこか清々しい笑顔で、菊は夜明けの空に飛び込んでいった。飛び上がった瞬間は空を飛んでいるような気がしたが、すぐに引力に引っ張られる。あ、ちょっと怖いかも。

あーあ、ほんと、なんでこうなっちゃうのかなあ。
せめて次の世界では、二人が二つでありますように!なんてね。

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