00「月白姫と人喰い妖怪」



男の背に、腹に、腕についた贅肉が躍る。肉と肉とがぶつかり合う音と、荒い息遣い。肉の塊に押さえつけられた細く青白い手首が、男の動きに合わせて時折小さく跳ねていた。やがて乾いた音は徐々に間を失くし、じんわりと汗ばむ丸い背中が震え、男の呻き声と共にその行為は―――終わったようだった
男は重たい身体を少女の上から退けると、何も言わずに部屋から出ていく。部屋には、少女の浅い息遣いだけが響いていた。


「おや。お姫様、君は実の父親に抱かれる趣味があるのか?」
寝台に仰向けに横たわる一糸纏わぬその少女に、天井裏からこの世の者とは思えない、不思議な声がかけられた。
その声に反応して、横を向いていた少女の顔が上に向けられる。汗で張り付いた髪がパラリと落ち少女の顔が露わになると、天井裏の声は大層残念そうに溜息を洩らした。

「なんだつまらない。どんなに醜い顔で泣いているのかと思えば、ただの人形じゃないか」
「勝手に覗き見しておいて、随分な言い様ね」
一切の表情が無い無機質な顔で、少女の口だけが動き、そう紡いだ。漆黒の瞳には一筋の光も射さず、まるでただの二つの孔のようだった。

「おや驚いた。まだ言葉が話せるのか。もうとっくに壊れたと思っていたよ」
「あなたは誰」
「わたし?さあ。ただの“面白いこと好き”さ。噂の真相を確かめに来たんだよ。殿が娘にご執心、心に深く傷を負った奥方は首を吊り。残された姫君ってのは、あなた様で間違いないかい?」
天井の板ごしに掛けられる問いに、初めて少女は表情を浮かべた。湧いた蛆を見るような目で、木の板を見つめる。

「ほう、まるで汚物でも見るような目じゃないか。母上の最期を見たときもそんな目をしていたのかい?首つりだなんて、あんなに汚い死に方は無いからねえ。鼻がもげそうになっただろ?」天井裏から低く笑う声が板を、柱を伝わり、部屋を満たした。その言葉を聞いた少女の無気力な瞳には、強い怒りと憎悪が渦を巻く。少女は掠れた声で、正体を見せない相手に罵声を浴びせた。

「最低、最低!よくもそんなことが言えるわね!あんたみたいな最低な人は初めてよ!吐き気がするわ!!この、……化け物!!」
「おや、大正解。姫様のおっしゃる通り、わたくしは化け物でございます。よくお分かりになりましたね?」
得体のしれない声がクスリクスリと不気味に笑うのを聞いて、少女は背筋にぞくりと嫌なものが走っていくのを感じた。

「それにしても人間は面白い。一言二言かけるだけで、あっという間に生き返る。暇つぶし程度にはなるかもしれない」

天井裏の声はそう言ったきり、少女が何を話しかけても返事を返してはこなかった。
それが、ある満月の夜のことだった。少女はきっと夢でも見ていたのか、または屋敷に狐でも入り込んだのだと、そう思うことにした。



しかしそれから数日後、またも天井裏から少女を訪ねる声は響いた。

「やあ。今夜は随分と酷くされていたねえ。首を絞めると具合が良いんだって?」
「また来たの。何しに来たの」
「だから、暇つぶしさ」
「悪趣味」
「君の父上よりは、幾分マシだろう?」
そう言うと少女は黙り、両手を絞め跡の残る首に当て、ゆっくりと力をこめていく。その様子を、天井裏の化け物は興醒めだとでも言うように鼻で嗤った。

「死ぬのか?自ら?脆弱な生き物め。つまらん」
「別に、あんたを楽しませようとして生きているんじゃないわ」
「では、わたしに馬鹿にされるために生きてきたのか?」
嘲るその声に、少女は首から手を放すと、苛々と頭を掻き毟った。

「人間ならば、精々醜く生にしがみ付け」
「あんたは、何がしたいのよ!」
「わたしは、人が悲しみ、苦しみ、もがく姿が生き甲斐なのさ。人々の嘆きが、わたしの力となる。だから精々苦しんで生き続けろ」

“あなたがわたしの気に召せば、あなたが壊れてしまったとき、わたしが喰ってしんぜよう”
その夜のアヤカシの最後の言葉は、呪詛のように少女に付き纏った。そして勿論、それが少女とアヤカシの最後となる訳がなかった。



「おや。今日はまだ、あなたの父上はいらっしゃっていないのか」
「今日は、来ないわ」
少女の声はどこかぼんやりとぐぐもり、聞き取りにくかった。いつも裸で横たわっている少女は、今日は藤色の寝巻を身にまとい、寝台ではなく床に寝ていた。

「何をしている?それは、楽しいのかい?」
「……流行病よ。伝染るの。まだこの町には広がっていないのだけれど、遠くから来た荷が連れて来たようね。私、あんたに食べられる前に、死にそうよ」
「……病?」
「ねえ、妖怪にも病って伝染るのかしら」
「人間のような脆弱な生き物と一緒にするな」
「じゃあ出てきてよ」
その声に、返事は無かった。あまりに呆気ない終わりに、ついに妖怪からも見放されたかと少女が意識を手放そうとしたとき、その額に何か固く小さなものがぶつかった。感覚が鈍くなっているのか、痛いとは思わなかった。うっすらと少女が目を開けると、目の前にはなにやら小指の爪程の、苔色の丸いものが転がっているではないか。

「飲め」
ぶっきらぼうな声が、天井から響く。まだ帰っていなかったのだと知り、少女は何故か嬉しく思ってしまう自分がいることに気が付いた。

「天狗の妙薬だ。飲め」
少女は自分でも驚くくらいに、従順にその言葉に従い、何を疑うことも無く粒を口にすると、桶の水で飲み下していた。天井裏の声は、その夜はそれきり何を言うこともなかった。



「ねえ、あんたは、女なの?それとも男?」
少女が天井裏に声を掛けると、天井の向こうから不機嫌そうな声が返ってきた。

「なんのつもりだい?わたしはあなたと慣れ合うともりはないんだがね」
「私が悲しそうでも苦しそうでもないから、不機嫌なのね。いい気味だわ」
天井裏のアヤカシは、少女の変貌に密かに首を傾げる。はて、一体この姫君の、何が変わったというのか。病が治ったと知れた途端、少女の父親はまた毎晩のように少女を組み敷いているし、その時の少女の死んだような瞳も変わらない。ならば何故、その瞳に生の光が再び燃え始めたのか。

「あんたが私を生かしたんでしょう?それで不機嫌になるなんて、勝手だわ」
「自分の獲物を、病なんぞに取られなくなかっただけだがね」
「嫉妬深いのね。ねえ、今日の月が何色か知っている?」
そんなもの自分で確かめろ、と言いかけて、アヤカシはこの部屋に窓が無いことに気が付いた。どうりで、息が詰まる訳だ。

「別に知らなかったらいいわ。そう、それより、あんた名前は?」
「話がころころと変わるのだな。人間の娘とはそういうものなのか?」
「名前」
「人間に名乗る名前などない」
アヤカシは静かに溜息を吐いた。何がどういう訳かは知らないが、ここにはもう自分の期待していた面白いものは無さそうだ、と。音もなく立ち去ろうとするアヤカシだったが、少女の初めて聞くような嬉しそうな声に思わず足を止めてしまった。

「夕顔。あんたのことは、これからそう呼ぶわ。暗くなってからしか現れないから」
何を勝手に名付けているんだ、とアヤカシは文句の一つでも言ってやろうかと口を開きかけたが、少女があまりにも大切そうにその名を繰り返し口にするから、その気は失せてしまった。

「……白」
「え?」
「あなたが訊いたんだろう。今宵の月の色は、白だ。あなた様にピッタリの色だな。月白姫」
ああ。何故、ただ名前を呼んだだけなのに、少女はこの上なく嬉しそうに笑うのだろうか。



「夕顔!この間あんたが持ってきてくれた本、全部読んじゃったわ!」
「読んだ、ってあれは西洋の本だろう。月白はただ絵を眺めているだけじゃないか」
「いいの!ねえ、私、もっと遠くの国の本がたくさん読みたいわ」
花の装丁が施された分厚い本を抱きかかえて、月白は天井を見上げる。

「あなたが知っているよりも、もっと遠くのことをたくさん知りたいのよ」
「なら此処を出ればいい」
夕顔の提案に、月白は表情を沈めるだけだった。この頃の夕顔には、月白の置かれる状況が大体分かってきていた。月白は、束縛心の塊である父にこの部屋に閉じ込められているのだ。流行り病にかかるよりもずっと前から、周囲に「娘は重い病にかかっている」と吹き込まれて。

「出してやろうか。此処から」



城に火が放たれたのは、月の無い晩だった。燃え盛る城内には酷く不気味な笑い声が充満し、それは城の外にまで響き渡り、人々は恐怖に捕らわれた。その混乱に乗じるようにして、二つの影が城の屋根から空に舞う。

「曲者!曲者だ!!殿の首を撥ね、姫君を攫う曲者を、誰か捕えよ―――!」
衛兵の声が影を追う。全身を黒い布で覆ったその影は、片方の腕で少女を抱え、もう片方の手で撥ねた首を振り回しながら、塀を駆けていく。

「ちょ、ちょっと!そんなもの捨てなさいよ!」
「そんなものとはなんと非情な。君の父親だろう?」
白濁した目を月白に近付けると、彼女は逃げるように夕顔の胸元に顔を埋めた。夕顔はそんな月白にくつくつ笑う。ああ、なんて彼女は面白いのだろう!と。
月白は、そんな夕顔に溜息を洩らした。

「やっぱり、あんたの考えは私には理解できないわ。正直今でも時々、悍ましいと感じるもの」
「それでは、何故わたしの誘いを受けた?」
「時々以外は、悍ましく思わなくなったからだわ」
月白は顔を埋めたまま、密かに笑みを浮かべた。夕顔が自分のことを暇つぶしの道具にしか思っていなくとも構わない。共に生きてみたいと思ってしまった。この残酷で惨い妖怪が時々見せる優しさに、絆されてしまったのだから。

「ずっと一緒に居ましょう」
「……わたしが、飽きるまではね」
「ふふ、じゃあずっと一緒に居られるわね。わたし、あんたに飽きられないようにするもの。毎日怒ってあげるし、悲しんであげるし、怖がってあげるわ」
「最近は君のそんな様子にも飽きてきたのか、あまり面白いと感じないんだ」
「あらそう。じゃあ、新しい面白いことを見つけましょう」
「新しい面白いこと?」
「そうね。じゃあ今日は、私の秘密を教えてあげる。人の秘密を暴くの、好きでしょう?」

風が凪いだ。人々の悲鳴が遠のいて、世界には二人ぼっちのような、そんな錯覚に陥る。

「私ね、夕顔、あんたのことが―――」

その時、一本の矢が黒い影を捕えた。白く眩い光を放つその矢は、浄化の力を帯びていた。
鏃は夕顔の肩に深く突き刺さり、屋根から屋根へと飛び移ろうとしていた身体が体勢を崩して下へと落下する。
その身体は必死で腕の中の少女を抱きしめながら、屋根を転げ道へと落ちた。取り囲む人々の前に黒い塊と、畏怖の対象であった男の生首が転がる。それを見て、屈強そうな男までもが情けない声を漏らした。

「攫われた姫君というのは、どちらだ」
矢を放った旅の武士が、淡々と衛兵に問う。目の前には、黒い布に包まれた人影と、それに抱き抱えられている白く細い少女。姫というには、あまりに貧相な姿だった。

「月白姫様は、そちらです!その黒い布の下には、殿を殺め、城に火を放った化け物が居るに違いない」
殺せ!殺せ!殺せ!街の人々は口々にそう言った。武士は、喚きたてるその声に煩わしそうに眉をひそめると、止めをさすべく黒い影に歩み寄った。その時、影が意識を取り戻したのか身動きする。黒い布が、ぱさりと地面に落ちた。

武士は息を呑んだ。そこに現れたのが醜い妖怪などではなく、あどけない少女の顔であったことに。夕顔は撃たれた左肩に走る鋭い痛みに呻きながら、起き上がる。

「……人間め、わたしを見たな!身の程知らずめ!殺してやる!!」
露わになった少女の姿は、誰もの予想を裏切るものだった。布の下から現れたのは、この世のものとは思えないほど美しい金色の髪に、煌めく葡萄色の丸い瞳―――。武士は、少女のあまりに愛らしい姿に、攻撃を仕掛けることが出来なかった。

しかし街の人々は恐れていたのが自分よりも小さな娘だと知るや否や、鎌や鋤を手に夕顔に近付く。嬲り殺してやろう、そうしよう、と、誰から共なく声が上がった。
人々はその姿に完全に油断しきっていた。その瞬間だった。一番先頭に立っていた男の首が、胴体から離れていったのは。少女の手に獲物は無く、あるのは血濡れたその手だけだった。

恐怖と欲望に狂った人々は、一斉に少女に襲いかかる。夕顔は、次々に人々を殺めていった。けれど、彼女にもうここを突破するだけの力は残ってはいなかった。武士の放った矢は、アヤカシの肉を溶かす聖なる力を宿しており、夕顔には、もう片方の腕しか残ってはいないのだ。

旅の聡明な武士は、次々に命を落とす街の人々を見て、躊躇いながらも弓を構える。狂ったように一人の少女に襲いかかる男達と、冷ややかな目でそれらを殺めていく一人の少女。どちらがどうであるかなど、関係は無いのだ。自分が人間である以上、また、この国の王に仕える身である以上、正義はぶれないのだ。

退け、という武士の声に人々は彼の軌道線上から退く。まっすぐに構えた弓から、再び聖なる矢が夕顔に向けて放たれた。―――しかし、その矢がアヤカシを殺すことは無かったのだ。


「あんた、女だったのね。ちょと、残念」
夕顔を庇うように飛び出し、背に矢を受けた月白がそう言う。

「……何、を」
「しかも結構可愛いんじゃないの。悔しいじゃない」
言葉にならないでいる夕顔の頬を、白く冷たい手が撫でた。
“姫はアヤカシに惑わされた反逆者だ、共に討て!”誰かがそう言ったが、誰も動こうとはしなかった。

「月白姫、月白、何故、何故あなたはわたしを庇ったんだ」
「分からないわけ無いわ。だって、あんた、今泣いているんだもの」
月白はそう言ったが、夕顔の瞳から人間のように涙が零れることは無かった。ただ、腕の中の少女を見つめるその瞳は、あまりに悲しい色を帯びている。

「ねぇ、私を、食べてよ。約束……でしょう?」
その言葉を最後に、夕顔の頬に置かれていた白く細い手は滑り落ち、愛おしそうに見上げていた目からは光が消え失せ、身体はぐったりと動かなくなった。

夕顔は、虚ろな目で腕の中の友人を見下ろす。徐々に冷たくなる肌とは相反して、腕に滴る赤は暖かかった。

「なあんだ。全く面白くないな」
夕顔はどこかぼんやりとそう呟くと、地面に散らばった刀で自ら、朽ちていく右腕を肩ごと切り落とした。アヤカシ祓いの忌々しい力の浸食をこれで防げるかと思ったが、既に全身に侵食しつつあるらしく、体中が軋んでいた。夕顔は叫び声さえ上げずに溜息を一つだけ漏らすと、月白の頬に散ってしまった血飛沫を指で拭ってやる。
そして彼女を片腕に抱き上げ立ち上がると、最後に一度だけ武士を見て、小さな嘲笑を浮かべ空へと飛び立っていった。誰も、その後を追うものは居なかった。



照らすものなど何もない山は、ただ闇に包まれていた。夕顔は柔らかな草の上に月白を横たえるとその上に覆いかぶさり、残った右手で、固くなった少女の手を握りしめた。

「人間とは、存外面白くないものだな。こんなにもわたしの心を虚しくさせる」
わたしが矢に撃たれる前、君はなんと言おうとしていたのだろうか。それが分からない。分かるようで、分からない。人間は、分からない。
徐々に目が霞んできた。懐には万病に効く天狗の妙薬があったが、それに縋る必要もない。何故ならば、彼女に飽きるまではずっと一緒に居ると、そう言った己の言葉に嘘偽りは無いからだ。

きっとわたしにとって貴女は―――……。

「左様ならば 仕方ないな」
彼女との約束を果たすために、夕顔はその肌に歯を立てた。

朦朧とする意識の中、彼女の甘味に溺れながら、夕顔はありもしない未来を想っていた。
―――もし、彼女と自分が最初から同じものであったならば、このような苦悩はありはしなかっただろうか、と。

一人のアヤカシの屍の横で、夕顔の花が揺れていた。ある新月の夜のことだった。

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